ディズニー映画で、『魔法使いの弟子』の予告編を、チラ見した。

ま~~~あんな感じなのだ。

ドラマッチックに仕立ててある部分を除けば、手によるエネルギー操作が分かる。

選ばれし者達ウンタラカンタラ・・そこに妙な幻想を入れ込む悪意を感じる。


全ての命が、選ばれし者だ。

皆、特別な存在で、皆役割を持っている。

それを感じて、翻弄されながらエネルギーの動きや質について学ぶ事が、与えられた役割に応じているに過ぎない。

本来、人間にはその能力がある。

もし無いと嘆くのならば、信念の除去が必要か、若しくはガイドの保護だろう。

これは、己に正直になれば自ずと分かるはずだ。

病から混乱の中にいる人も、それこそが、メッセージだとやはり思う。

一番辛い体験を通して、天は示唆する。

私如きのアマちゃんに与える試練は、トンでもなく軽い。

だから、これを読んでる方にお願いしたい。

これをそのまま、信じてはいけません。

自分の体験にこそ、全てのヒントがあります。

もし、ここに何かのヒントを感じたら、それはあなたが育てたあなたの宝です。

違和感。共感。反感。嫌悪感。

それこそが、あなたの宝です。

見知らぬ他人に、自分を明け渡してはなりません。





この映画から私は何を学べるか?

『念に対して、慎重になる』かな。。

ふと、思った事で相手に影響を与えてしまう。

それが、潜在的に持っている支配欲を刺激して、カルマを間違った方向で育ててしまう可能性を見る。

支配したい因縁は、遠からず必ず返ってくるだろう。

それを望んでいるからだ。


アセンションは、同時にディセンションを起こしていると思う。

どちらを望むのか、深層心理とよ~~く相談しなければ。。


アセンションという信念領域が、出来上がっている気がする。

いつか探索してみませんか~~クラッカー


先回の大仰な内容から、どうも居心地が悪い。

客観と人目を気にする違いについて考えていた。

人目を気にするという島国根性が、どうも好きになれない。

どう思ってもらっても、どうぞ・・とつい喧嘩腰になる。

それはさらにツマラナイ。



そんで、ちょっとした弾みで、月に行ってしまった。

そこでの会話


三日月『あなたは客観性と言ってますが、人目を気にしているのはあなたではないですか?』

お。おおおおぉ~そ~かも。いや。そうだ。そ~~~だった。

三日月『所詮、死後の世界や宇宙の事を、人間の言葉にするのは限界があります。でもその僅かな情報でも誰かと共有したいのでしょう?それで良いのです。』

この声の主は、空間から声が聞こえてくる。

鏡のイメージがくる。

三日月『あなた自身を映しだす心の整理に、ここに来ると良いでしょう。』

ブタ『ここは?』

三日月『月の神殿です。』

ブタ『あなたは?』

三日月『月です。』


孤独の内に棲め・・・ガイドのメッセージが少し前に来ていた。



ヘミシンクは、とても日本で売れてるそうだ。

ブログも百花繚乱で、楽しい。

色んな視点があって、きっかけがある。

読んでいると、書き手の傷が見えてくる場合、心底応援したくなる。


キリストの磔の意味は、浄化なのだそうだ。

神の意思とは、まことに激烈かつ明快だ。


ブログを読んでいて思う事。

ヘミシンクにも、オピニオンリーダーが存在する。

それぞれが役割を持っている。

書籍を出版したオピニオンリーダーも存在する。

その影響力は、カリスマ的でありながら、現代風である。

つまり『フツーー』キャラ。


ホンの少し前、PCやネットが無い頃、出版するのは大変な事だった。

書く自由と一緒に、社会的責任を背負わされたからだ。

書籍が世にある以上、身を晒し続ける。

売れたら、売れたで本当に書きたい事から遠ざかってしまう重さと対時しなければならない。

それは、今も変わらないと信じたい。

ある作家がいつも嘆いていた。

『先生と呼ばれたいほど、バカじゃなし~~』

彼は後年、突如大学教授になって、私は腰を抜かした。

芝居で食べている私に、彼は言い続けた。

『つまらんプロになるな。掃いて捨てるほどいる。大いなるアマチュアでいろ。』



表現と表出の違いを、私は訓練してきたつもりだ。

表出は、衝動である。

表現は、その表出に色付けをしたり、かぎ括弧をつける。

表現は、同化、異化、俯瞰、ニュートラルを駆使しなければならない。

簡単な捉え方でいうなら、主観と客観のバランスだ。

主観が衝動的に発露され、客観というフィルターを通し、不特定多数に届く。


『命』の字源は、天から表現する時間を許されている。

人は皆、表現者なのだ。


客観的視点とは、何か?

冷静な感覚?

冷静な主観との違いは?


私は、人は皆、主観しか持ち得ないと主観している。

主観と主観の間に存在するのが、客観ではないか?と主観している。


ヘミシンクにも、バランスが重要だと思う。

主観と客観

緊張と緩緩

そしてそれをブログにする際、書き手と読み手の間で、無意識の念に影響される。

自由と責任

表現と表出

これらのバランスに個性が出る。


客観性を持ったキャラクターが、責任感を強く持ったら、教条的になる。

主観の強いキャラが、自由奔放になったら、夢のような妄想ヘミシンクですぐ幸せになれる。


客観性を持って、弛緩したら、寝落ちする。

主観から、緊張に入れば、自虐的井戸の中の蛙?


主観から表出は、暴力。

主観からの自由は、やりっぱなしの出しっぱなしの無責任。

客観から表現は、傷みを伴わない人ごと。

客観からの自由は、存在するか?

色んな組み合わせを想像すると、面白い。

バランス感覚がないという状態は、病的な症状で身体がその均衡を代替してくれているようだ。

だから、みなバランス感覚は持っていると思う。

人間は、社会的な生き物なのだ。

(自己責任・・この言葉と、日本人はどう向き合っていくのか?それも分からない。)



ネット上でのブログと、書籍化はその影響力において、どちらが大きいのだろう。

私はやはり、書籍化する責任を問いたい。

個人の主観とは違って、本には影響力の大きさも格段の差がある。

『世に問う』スタンスを持ってほしい。

その上で、『フツー』を装ってくれたら、素晴らしい作家だろう。


私達は、ヘミシンクを通して潜在的に影響しあっている。

『この体験は良し。』

『ここにくるには、こうすれば良い。』

そうやって、お互いに既成概念を掛け合っている。

情報は、無意識に蓄積し、『呪』をかけられた状態になるのではないか?

(ただの木の木っ端が、橋や箸の呪をかけられて道具になる云々。。)

その罠に嵌ったら、自分の体験は遠ざかっているし、遠ざかる。

内観の旅は、開拓者でなければならない。

他ならぬ自分を探す、自分の海に航海するのだ。

見知らぬ誰かに、自分を明け渡してはならない。

『何でも、どうでも、好きなように探索すれば良いのです』

この美辞麗句に踊らされていないか?

いつも自問自答する。

そして思う。

ヘミシンクのオピニオンリーダーには、旬がある。

優れたオピニオンリーダーは、その季節の移り変わりを楽しむかのように変化する。

きっと、己が傷の浄化と共に成長するのだろう。。



『フツー』は、魔界の魔法か?罪な言葉だ。



私が優れたオピニオンリーダーを、見分けるコツは、

『傷』を持っている事。隠し持っている。もしくは持っていた。

でなければ、何故キリストは磔にまでなったのか?

私達一人ひとりの中に、傷や痛みを見るからこそ、

神は逃げてはならんと仰るのだろう。

無条件の神の愛だ。



私の遠い親戚に、レインボーチルドレンと思われる子どもがいる。

全く、怖れが無い。欲も無い。

天使のようだ。

世界を全く受け入れている。

きっと、フツーに天と繋がっているのだろう。

言葉の可能性も知らない。

客観とか、表現など無縁だ。

状態で存在する。

善も悪もなく、ただ、衝動があるだけだ。

疑いも、不安も、言葉の壁も無く、彼らとコミュニケートする至福を味わった。

その子は、僅かに片言の英語しか話せない。

でもそれで十分だった。

それ以上は、不要だった。

説明も、自己主張にも、無関心だった。


彼らにとって、世界はただ存在するだけだ。