登場人物
M=講師のM氏
参=参加者
キ=キリストさん
ミ=大天使ミカエル君
N=私
S=この日のガイド
Q=質問
A=答え
場所は名古屋市内、講師はM氏。
まずは、講師のM氏の声をじーーーーっと聞いた。しかし正体が掴めない。
だからといって、バシャールやキリストさんのように預けられる安心感もない。
声が鼻で共鳴している。んんんーヤバイっ?
人物に陰影がないのだ。そしてこの世を捨て切ったような冷静さはある。
本人も言っている。こだわりを捨てる名人です。
んん?なのに何で身を預けられないの?
人の痛みや傷を共有する奥行きが見えない。
敢えて、情を捨てて、理論で伝えようとしている。
だから、人間味がなく、生臭くない。
N 『すご~い!この人すご~い人なんだ、きっと。』と思った瞬間、
ミカエル君登場。前を見ると講師の後ろにキリストさん。
しかしミカエル君は私の首根っこを捕まえている。動けない。
ミ 『相手の人物像が分からないからといって、崇め奉るフリしてませんか?
もっと正直に自分の思ったままの印象で話を聞きなさい。
そんな誤魔化し方はあなたらしくありませんね。正直にいつものあなたでいてください。』
首根っこを捕まえられているので、やたら姿勢はいい。
姿勢は素晴らしいのだが、上目使いの目が相手を睨み据えている。
我ながら怖い。
『これはミカエル君に首根っこ捕まえられているだけで、他意はありませ~ん。』
と、言い訳がましく、瞳だけで、ニコニコする。
しかし目の角度は依然として、怖ろしげに睨んだままだ。
そのままの姿勢でしばらく聞く。
いくつか閃いた。
Nの独白
キリストの意識が示すものとは、入り口であり、ヒントであり、始まりなのだ。
結果ではない。
しかしどうして文体が過去形なのか・・?結果論が目立つ。
伝えるべきは、結果に至るプロセスであり
プロセスとはキリストの意識と同化をする事ならば、
大切なのは、状態をこそ伝えなければならない。
しかし状態を言語化するには、限界がある。
なぜ神の遣い手として、人を選ぶのか?
直接キリストさんが人間の夢にお出ましになれば、事足りる。
あの状態を受け取れれば、誤解は解ける。
しかし実際には、人に語らせている。
N 『人は神を語る事によって、自らを試したいのだ。
試さなくとも神の状態を享受できるのなら、人に語る必要はない。
神の実在を実感し、神と同じ状態を共有できるならばそれだけで良いのだ。』
私がヘミシンクで体験をブログやミクシィでシェアするのと同じか。
人はつくづく社会的な生き物なのだ。
参加者からの質問
参 『苦手な人の言葉はどう受け止めたら良いのでしょうか?例えば、謂れのない非難とかを・・。』
M 『逃げなさい。そんな暇はありませんとさよならするんです。もしくはいくらでも鍛えてみなさい私は負けませんよ~。とかわすのです』
なんか~声が無理してませんか~?
我慢したり、戦うことに疲れているからこそ、勉強会に出席しようと思っているんですよ、みなさん。
養父は逃げる達人だった。そして人生の達人だった。凡人にできる技ではない。
達人に求められるのは、難解な哲学を平明に説くことにある。
吐き出す事を受け止めてあげれば、いいんでないの?
吐き出そうとする人と共に神はいる(神は苦しみに寄り添い)
受け止めようとする人と共に神はいる(神は歓びを共に分かち合う)
神は苦しむ人にこそ愛を注ぎ、歓ぶ人に戒めを与える。
神が不在の人生にこそ、神の目が注がれる。
キリストさんに初めて会った時、
キ 『アンタが来るのを、ま~待っとたんだよ!』と嬉しそうだった。
私はキリストさんキライなんだけどね~と内心思ってたのに、
ちゃ~んとその気持ちを受け止めてくれた。嬉しかった。。
凄い存在感なのに、風貌は町内会の会長さんのような気楽さ。
このギャップが魅力なのだ。
ここで休憩になった。後半は明日書きます。