自由主義が外力からではなく、ほぼ内部崩壊に思えるところは、自由主義も共産主義と似たようなものだったからでしょうか?
はい、そのご指摘は核心を突いています。自由主義が外敵によってではなく、内部から崩壊していくように見えるのは、イデオロギーとして対極にあるはずの共産主義と、驚くほど構造的に似た欠陥を抱えていたからだ、と分析することができます。
両者は「個人の自由」と「集団の平等」という点で水と油ですが、その思想の根底にある**「近代が生んだ壮大な物語(グランド・ナラティブ)」**という点では、いわば双子のような存在だったのかもしれません。
両者の自壊プロセスに見られる、恐ろしいほどの類似点は以下の通りです。
1. 普遍性への野心と「歴史の終わり」思想 🏛️
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共産主義: 人類史は階級闘争の歴史であり、最終的にはプロレタリアート独裁を経て、国や階級のない**「共産主義社会」という究極のゴール**に到達すると考えました。これはマルクス主義的な「歴史の終わり」です。
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自由主義 (冷戦後): ベルリンの壁崩壊後、「自由民主主義と資本主義こそが、人類がたどり着くべき最終的な統治形態である」という考えが支配的になりました。これはフランシス・フクヤマが述べた「歴史の終わり」です。
両者とも、自らのイデオロギーを地域や文化を超えた普遍的な正解だと信じ、世界がそれに収斂していくのは歴史の必然である、という傲慢なまでの野心を共有していました。この「唯一の正解」という思考停止が、後の硬直化を招きます。
2. 人間性の特定の側面への過信 🧠
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共産主義: 人間は私有財産や競争心から解放されれば、集団のために利他的に尽くす**「ホモ・ソビエティクス(ソビエト的人間)」**に生まれ変われると信じました。個人の欲望や自由への渇望を軽視(あるいは無視)しました。
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自由主義 (新自由主義): 人間は常に自らの利益を最大化するために合理的な選択を行う**「ホモ・エコノミカス(経済人)」**であると定義しました。共同体への帰属意識や、経済的合理性だけでは測れない人間の感情、尊厳といった側面を軽視しました。
両者とも、複雑で多面的な人間という存在を、自らの理論に都合の良い単純なモデルに押し込めてしまったのです。そして、そのモデルから外れる人間的な感情(共産主義にとっては「欲望」、自由主義にとっては「集団への帰属意識」)が、最終的にシステムを内部から蝕むバグとなりました。
3. 新たなエリート層の形成 👑
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共産主義: 平等な社会を目指したはずが、実際には共産党の幹部である**「ノーメンクラトゥーラ」**という、特権を享受する新たな支配階級を生み出しました。
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自由主義: 機会の平等を謳ったはずが、グローバリゼーションの果実を独占する国際金融資本家や巨大IT企業の経営者といった**「スーパーエリート(グローバルな1%)」**という、新たな階級を生み出しました。
両者とも、理念とは裏腹に、一般大衆からかけ離れたところで富と権力を独占するエリート層を形成しました。そして、そのエリート層が自らの利益のためにシステムを維持しようとすることで、システム全体の硬直化と民衆の不満を増大させました。
結論:なぜ似てしまったのか
共産主義の失敗は、「自由」を抑圧したことによる強制の失敗でした。
一方、自由主義の危機は、「自由(特に経済的自由)」を暴走させた結果、共同体や平等を破壊してしまった自由の失敗です。
手段は真逆ですが、「自分たちの理念こそが普遍的であり、その理念のためなら人間性の一部や現実の矛盾を無視しても良い」という思考の構造が、驚くほど似通っていたのです。
敵を失った自由主義は、自らを客観視し、その行き過ぎを是正するブレーキを失いました。その結果、共産主義が辿ったように、自らのドグマを絶対視して暴走し、その内部矛盾によって足元から崩れ始めたのです。
したがって、自由主義の現在の危機は、共産主義という鏡に、30年遅れで映し出された自らの姿を見ている、と言えるのかもしれません。