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テックライトが、いわゆる自由主義政権の「大聖堂」を攻撃対象にしています。しかし、この「大聖堂」は普遍性のある権力構造であって、テックライトだけでなく、自由主義も共産主義もあらゆる政治体制や政権転覆を狙う集団が攻撃対象にしてきた歴史があります。人類はいつまで経っても、この絶望的な輪廻から解脱することは「人間」であるためにできないのでしょうか?

 

はい、それは現代政治思想と人類史を貫く、極めて本質的な問いです。あなたの洞察は完全に正しい。テックライトが攻撃する「大聖堂」は彼らだけの敵ではなく、権力そのものの構造的現れであり、歴史上、あらゆる革命勢力が打倒の対象としてきました。

そして、その絶望的にも見える輪廻から、我々は「人間」である限り、完全には解脱できないのかもしれません。その理由と、わずかな希望について考察します。


 

「大聖堂」の本質:なぜ誰もがこれを攻撃するのか

 

まず、あなたの言う通り、「大聖堂(The Cathedral)」は特定の政権やイデオロギーを指す言葉ではありません。これは、ネオ反動主義者のメンシウス・モールドバグが提唱した概念で、社会の「正しさ」や「常識」を定義し、維持する、非公式だが極めて強力な権力ネットワークを指します。

  • 構成要素: 主要大学(特にハーバード、イェール)、主要メディア(ニューヨーク・タイムズなど)、官僚機構、NGO、財団など。

  • 機能: 政府のように法律で人を支配するのではなく、教育、報道、文化を通じて**「何がまともな考えで、何がそうでないか」という世論の枠組み(オーバートン・ウィンドウ)を設定**します。

この構造は、普遍的なものです。

  • 自由主義革命が攻撃したのは、王権と教会の結びつきという「旧体制(アンシャン・レジーム)の大聖堂」でした。

  • 共産主義革命が攻撃したのは、**資本家、メディア、政府が一体となった「ブルジョアジーの大聖堂」**でした。

  • そして現代のテックライトやポピュリストが攻撃するのは、**リベラル・エリートが支配する「プログレッシブの大聖堂」**なのです。

つまり、時の政権を奪うだけでは真の革命は成し遂げられません。人々の価値観や道徳観を形成する「OS」そのものである「大聖堂」をハックし、自らの思想で上書きしない限り、権力は盤石にならないのです。だからこそ、いつの時代も、挑戦者はまず「大聖堂」を攻撃するのです。


 

絶望的な輪廻:なぜ解脱できないのか

 

では、なぜ人類はこの「大聖堂を打倒し、新たな大聖堂を建設する」という輪廻から抜け出せないのでしょうか。それは、人間と社会が持つ根源的な性質に起因します。

 

1. 秩序への渇望と「物語」の必要性 ⛓️

 

人間は本能的に、カオスを嫌い、安定した秩序を求めます。社会がまとまるためには、「我々は何を信じ、何を善とし、何を悪とするのか」という**共通の物語(神話)**が不可欠です。この共通の物語を生産し、維持し、次世代に伝える装置こそが「大聖堂」に他なりません。無神論を掲げたソ連でさえ、マルクス・レーニン主義という新たな「聖典」と、党という「教会」を作り出したのがその証左です。

 

2. 「カウンター・エリート」の宿命

 

既存の「大聖堂」を打倒する勢力、すなわち「カウンター・エリート」は、勝利した瞬間から、自らの権力を正当化し、維持するための新しい「大聖堂」を建設せざるを得ません。かつての挑戦者は、気づけば新たな既得権益層となり、次の挑戦者から「打倒すべき大聖堂」と見なされるようになります。これはロベルト・ミヘルスの言う**「寡頭制の鉄則」**そのものです。革命家が、かつて自らが最も憎んだ権力者そのものになってしまうのです。

「新しいボスに会ってみろよ、前のボスと何も変わらないぜ」

(Meet the new boss, same as the old boss)

― The Who, "Won't Get Fooled Again"

 

3. 人間であることの「業(ごう)」

 

突き詰めれば、これは権力への意志、他者を支配したいという欲求、自らの正義を万人に認めさせたいという承認欲求といった、人間の根源的な性質に行き着きます。完全にフラットで、中心のない社会は、少なくとも現生人類の社会性のあり方とは相容れないのかもしれません。この闘争と循環そのものが、人間の歴史を動かしてきたエンジンなのです。


 

解脱への三つの道筋(あるいは、徒労)

 

では、希望は全くないのでしょうか?「輪廻からの解脱」を目指す試みも、確かに存在します。

① 技術による分散化(テックライトの夢) 💡

テックライト自身が提示する解決策がこれです。ブロックチェーンや暗号資産、分散型SNSといった技術(Web3)を用いて、中央集権的な「大聖堂」が存在し得ない、徹底的に分散化された社会を構築しようという試みです。誰もが情報発信者となり、国家や中央銀行を介さずに価値を交換できる世界。しかし、そこでも新たな形での権力集中(コードを書く者、巨大な計算能力を持つ者)が起こる可能性は否定できません。

② 制度による闘争の恒久化(自由主義の理想)

本来の自由民主主義の理想は、「完璧な大聖堂」の完成を永遠に阻止し続けることにあります。言論の自由を保障し、野党の存在を認め、定期的に選挙を行うことで、一つの「大聖堂」が権力を永久に独占することを防ぎ、挑戦者が常に存在し続ける**「開かれた闘争」の場**を制度的にデザインするのです。このシステムは常に不完全でノイズも多いですが、輪廻の速度を緩め、破壊的な転覆を防ぐ知恵とも言えます。

③ 哲学的・精神的な解脱 चक्र

社会構造としてではなく、個人としてこの輪廻から降りる道です。権力闘争そのものの虚しさを悟り、自らの内なる平穏を求める、いわば仏教やストア哲学的なアプローチです。社会を変えるのではなく、ゲームのプレイヤーであることをやめるという選択です。しかし、これはあくまで個人の救済であり、社会全体の輪廻を止める力にはなりません。

結論として、人類社会がこの輪廻から完全に解脱するのは、人間が人間である限り、おそらく不可能でしょう。 私たちは、秩序を求めずにはいられないと同時に、その秩序を破壊しようとする衝動からも逃れられないからです。

我々にできるのは、その輪廻の破壊的エネルギーを少しでも抑制し、より平和的で創造的なものへと転換していく努力を、制度や思想を通じて続けることだけなのかもしれません。それは絶望的な徒労に見えるかもしれませんが、その緊張感の中にこそ、人間の自由と尊厳が宿っているとも言えるのです。