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『なおえもん歴史紀行』

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九州の情勢

豊臣秀吉の全国統一が完成に近づいていた頃、九州はまさに島津氏によって制圧されようとしていた。九州三強を担っていた龍造寺・大友の両氏がそれぞれ島津氏に敗れ、その勢力を大きく減らしていた。特に大友氏の衰退が著しく大友宗麟は秀吉に助けを求めた。秀吉は島津に停戦するように求めたが島津氏はこれを無視した。激怒した秀吉は毛利氏と長宗我部氏を援軍に向かわせた。


秀吉軍の遠征

しかし、大友氏の内紛や秀吉軍内部の意見の対立などで九州をほぼ制覇しかけていた島津義久ら4兄弟の前に苦戦し、【戸次川の戦い】において島津氏の「釣り野伏せ」の戦法の前に大敗し、長宗我部の嫡男信親を始めとする多くの将を失った。
この情勢に秀吉ら自ら出陣し、肥後方面から秀吉が、日向方面からは弟の秀長が率いて二方向から攻め寄せ総勢20万の大軍で島津氏を圧倒した。さすがの島津氏もこの物量の前には対抗できず、またたくまに秀吉軍は九州を南下していった。
秀吉が直々に出兵してから2ヶ月、ここに至っては島津義久は秀吉の軍門に降った。島津氏は旧来の領地である薩摩・大隅の2ヶ国が安堵された。


※釣り野伏せ
島津軍が得意としていた戦法でまず囮部隊が敵の前に出たのちに退却し、伏兵が待ち構えているところまで敵をおびき寄せる。しかるのちに伏兵と囮部隊が一斉に攻撃するという戦法である。
特に島津氏はこの伏兵に鉄砲を持たせていたことから効果が抜群だった。鉄砲の伝来地である種子島を領地の中にあることから鉄砲の使い方に詳しく、数も多く持っていた。