村田和人&竹内まりや Summer Vacation | ☆♪ブラックジャックの気ままな日記♪☆

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明日はプレミアムフライデーです。謂わば死語になっています。


YouTubeで竹内まりやさんの曲を聴いていたら、耳に馴染み、ちょっと調べました。


村田和人さんをWikipediaで調べると、以下の通り(一部抜粋)。(むらた かずひと、1954年1月2日 - 2016年2月22日)

<デビュー前>
獨協大学入学後の1977年にバンド「ALMOND ROCCA」を結成し、本格的なバンド活動を行うようになる。「ALMOND ROCCA」は1978年のEastWest地区大会でグランプリを獲得するなど高い評価を受ける。渋谷にあるYAMAHAのスタジオ「エピキュラス」で練習を行い、デモテープを制作。『エピキュラス・フレンズ・コンサートライブ』という自主制作盤に後のレパートリー曲となる「電話しても」「GREYHOUND BOOGIE」が収録される。また、デモテープがエピキュラスのエンジニアからフリーのプロデューサーに渡り、ソングライティングとヴォーカルを高く評価したプロデューサーが村田に接触するも、完全な洋楽指向で邦楽は山下達郎とはっぴいえんどしか聞いていなかった村田は「あなたじゃ駄目、僕らをプロデュースできるのは山下達郎ぐらいかな」と大口を叩いて断ってしまう。だが、そのプロデューサーが偶然にも山下達郎と知り合いだったため、後日、実際に山下に引きあわせてもらい、デモテープを渡す機会を得る。デビューへの道を模索するが、村田が山下との間にプロデューサーを入れることに納得いかず、かといって直接依頼したかった山下の電話番号も聞いていなかったため連絡が取れないまま、デビューの話は立ち消えになってしまった。しかし、デモテープを聴いた山下は村田を高く評価しており、「もし、このシンガーが世に出なかったら「電話しても」を自分で歌おう」と思ったほど惚れ込んだという。結局デビューの話が立ち消えになってしまった村田は大学卒業を節目として「ALMOND ROCCA」を解散、日本楽器製造株式会社(現・ヤマハ株式会社)に入社し、営業マンとして勤務を始めた。暫くして、サラリーマンとして働きながら「ALMOND ROCCA」を再結成し、精力的にライブ活動を行う。ライブを見に来ていたRCAレコードのディレクターに評価され、再びデビューの話が持ち上がる。RCAレコード内にあるAIRレーベルに所属していた山下達郎と再会。既に村田を評価していた山下の後押しもあり、デビューが決定する。

1981年、会社を退職しデビューアルバムのレコーディングに入る。山下によるプロデュースを期待していた村田だったが、音楽性や声質から「山下達郎が村田を手がけたら、似すぎてしまうのでは」というスタッフの危惧から、アレンジは鈴木茂と当時、寺尾聰のアレンジでヒットを飛ばしていた井上鑑に委ねられることとなる(鈴木はアルバム『LAGOON』を気に入っていた村田の、井上はスタッフサイドからの要望であった)。レコーディングが進む中、製作途中のテイクを聴いた山下から直接村田に連絡があり、アレンジのやり直しを進言。結局「電話しても」を含む数曲が山下のアレンジで録り直すことになった。また、製作中にムーン・レーベル設立の話が立ち上がる。第一弾アーティストとして村田と松下誠がラインナップされることとなり、一旦レコーディングを中断してデビューのタイミングを調整。レコーディング開始から1年後の1982年4月、シングル「電話しても」でデビュー、同年6月にファーストアルバム『また明日』がリリースされた。

<デビュー後 - MOONレーベル時代>

『終わらない夏』のプロモーション終了後、スケジュールの空いていた村田に山下達郎のツアーにコーラスとして参加する話が舞い込む。山下によってリハーサルでかなりしごかれたが、現場での多くの音楽的経験を積んでいった。ツアーで村田が一番参ったのは、他の女性コーラス陣と合わせての「踊り」だったという。1983年、山下達郎のプロデュースでシングル&アルバムを制作。マクセルからの依頼で一本の音楽というコピーを使用するという条件で制作された先行シングル「一本の音楽」がスマッシュヒット。CMの露出が多かったこともあり、6月に発売されたセカンドアルバム『ひとかけらの夏』は売れ行きも上々、ライブもコンサートホールで行う事ができるようになった。数多くライブ活動を行う中で、山本圭右、阿部薫、小板橋博司、小室哲哉のバンドメンバーでサウンドを確立していった。翌1984年TMネットワークでデビューする小室を除くメンバーでサードアルバム『MY CREW』を製作。本来このサードアルバムで再び山下がプロデュースを行う予定だったが、村田サイドがこのバンドメンバーでのレコーディングを選択。セカンドアルバムでの経験を生かした、村田のセルフプロデュース作となった。全国主要5都市を含む全国ツアーも行われた。

しかし、翌1985年は再登板の予定だった山下が諸事情により(自身の音楽制作へのコンピュータ導入による試行錯誤など)制作に着手できず、村田も収録予定だった楽曲を他のアーティストに提供する等、ちぐはぐな活動となってしまい、結局アルバムの製作は流れてしまった。

1986年に新しいディレクターの手引きで渡米し、ロニー・フォスターの元で『showdown』を製作。LAのスタジオミュージシャンを起用した本作は、これまでの村田にはないアーバンでスタイリッシュなテイストを盛り込んだ意欲作となった。

1987年に再渡米、 LAでベーシックトラックを製作し、日本でダビング及びヴォーカルを録音する形で製作された『Boy's Life』はこれまでの村田の音楽活動の集大成というべき作品となった。


レコードでは竹内まりやさんと歌われていますが、ライブなどでは杏里さんとデュエットされています。YouTubeで聴いてみると、杏里さんの軽快で、流れる歌唱の方がより合っていると感じました。


「Summer Vacation」


作詞:安藤芳彦
作曲・編曲:村田和人


テニスコートの出会い 木陰のささやき
まるで避暑地の恋と 笑っていたけど

Too Late アドレスさえ聞けなかった 悔んでるよ

Summer Vacation Do you remember me? 
想い出になる前に

Summer Vacation Yes,I remember you. 
君に会いたくて

白いポーチのホテル 人影もなくて
一足早い秋に 枯れ葉舞うテラス

If You 男らしく離さないと告げられたら

Summer Vacation Do you remember me? 
帰らぬ夏の夢か

Summer Vacation Yes,I remember you. 
避暑地の出来事

Summer Vacation Do you remember me? 
もう一度この胸に

Summer Vacation Yes,I remember you. 
あの風の優しさに 夢見てた夏を