ミュシャ展は、6/5(月)まで、国立新美術館@乃木坂、六本木にて開催されています。明日のNHK教育テレビ・日曜美術館・9‐9:45は過去にミュシャに関して放送した再放送みたいな感じみたいです。
僕は、ある程度、事前知識を踏まえて音声ガイドで確認しながら鑑賞し、更にテレビ番組などを見直してから、再度訪問しました。
以下は購入したクリアファイル5枚。
以下はスラブ叙事詩以外で購入したポストカード。
PART1で記載した通り、以下の大女優であるサラ・ベルナールの舞台用ポスター「ジスモンダ」を手掛けた事により、ミュシャは有名になります。これも偶然ですが、クリスマス休暇で印刷工として働いていた時に、周りは休暇を楽しんでいる中で、試しに描いたらサラ・ベルナールが気に入って6年間の専属契約を結び、パリ中で大評判になった(34歳で一躍人気アーティストになった)。4000枚の街頭ポスターが一夜で盗まれ、印刷所も大変だったと言われています。
27歳でパリに来て、挿し絵を書いたり、印刷所で働いたりしながら、苦労していた。
ミュシャの作品は、女性にユリを使う事で「聖母マリア」や「受胎告知」が描かれるという約束事があったが、約束事から自由になって、美しさ、花・自然・女性の美しさをたたえている、喜びを表しているような生き生きとした作品になっている様に感じます。ミュシャがよく利用していたお花は「カーネーション」、「ユリ」、「バラ」、「アイリス」で「ミュシャ様式」とも呼ばれています。堺市には「詩」、「ダンス」、「絵画」、「音楽」を表した作品があります。
女性と花を描いた作品と思われがちですが、実はミュシャは花を擬人化しています。つまり、バラの聖、アイリスの聖など。
そしてミュシャが特徴的なのは、曲線を多用、線の太さ、勢いを感じ、立体的で動き・時間まで感じさせます。
1900年にパリ万国博覧会があり、「ボスニア・ヘルツェゴビナ館」壁画のミュシャの下絵が2枚飾られていました。この作品は銀賞を受賞し、翌年にはフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受けます。
これは実際にバルカン半島のボスニア・ヘルツェゴビナへ取材をする。ボスニア・ヘルツェゴビナもチェコと同じスラヴ民族であり、大国に虐げられながら生活するスラヴ民族の様子に共感する事が多かった。確か、行ったり戻ったりと10日間で2枚の大作を描いたと言われています。この取材を通して、歴史を学び、神話を集めて、大国に支配されているスラヴ民族の悲しみを目の当たりにして、何時か作品・スラヴ叙事詩に纏めたいと思う、きっかけの1つになった。
真ん中に鎮座する人はボスニア・ヘルツェゴビナの擬人像と言われています。タバコの葉っぱを持つ民族衣装を着た女性、材木、葡萄を持っていたり、家畜を持っていたり、ボスニア・ヘルツェゴビナが如何に自然が豊かだったのかを表しています。
ミュシャ様式は、細部を観察し、そのリアルさを大切にしました。しかし、皮肉な事に細部まで神経を研ぎ澄まして描いた作品がミュシャを苦しめます。描けば描くほど、さばき切れない注文が入る。疲れ果て、オーバーワークになっていく。
その時の気持ちをミュシャは謎めいた言葉として残しています。
「真夜中なんだ、アトリエで絵やポスターに囲まれて、1人きりでいた。気持ちが高ぶっていた。故郷の人が、どぶ水で喉の渇きを癒している時に、私は貴重な時間を、こんな事に費やしていたのだ」
ミュシャは20年暮らしたパリを離れ、姿を消した。1910年に50歳で故郷のチェコに戻り、スラヴ叙事詩を完成させた。
ミュシャはチェコに帰る前に何度もアメリカに訪問しています。初めて渡米したのは44歳の時で、経済的にもアメリカは豊かであり、スラヴ叙事詩を手掛けるための資金を得る・パトロン探しを行った。そこで、チャールズ・クレインに出会った。
1908年に、ミュシャに影響を与えた曲がある。それはチェコの作曲家・スメタナが作った連作交響詩「わが祖国」。この曲に感化された事も叙事詩が生まれるきっかけとなった。
ミュシャのお孫さんによれば、「パリ時代がミュシャの全盛期といわれますが、祖父にとっては違っていました。チェコのために作品を描きたいと思うようになったのです。」
ミュシャが故郷に戻って、最初に手掛けた作品は、プラハ市の市民会館。全ての絵を無償で描きました。天井の中心に描かれていたのは名もなき民衆です。つまり歴史を支えているのは民衆であり、チェコでは多くは農民であり、畑を耕している。互いに助け合いながら働いている。ミュシャは民衆の力を表そうとした。
●パリ時代に描いた「四つの花(バラ)」(37歳頃)
●チェコ時代に描いた「ヒヤシンス姫」(51歳頃)
ミュシャが51歳の時の作品は「ヒヤシンス姫」(チェコの人気女優だったセドラーチェコヴァーの舞台ポスター)など。フランス時代の「四つの花(バラ)」と比べると、眼力、眼の描き方が変わります。単純に言えば、キツネからタヌキに変わっている。ミュシャが結婚した事により、モデルの顔が少し丸顔になっている。更には豊かな表情、都会的な、強い女性を描くようになった。
1928年に「スラヴ叙事詩」展を自分でデザインしています。そこに描かれているのは娘のヤロスラヴァ(未完成と言われている作品にも描かれています)。
ただ、この時期はアールデコの風潮だったので、作品としては一昔前という捉え方だったとも言われています。
スラヴ叙事詩のアトリエは中世に建てられたズビロフ城の中にある。自然光を活かした作りで、家族でも予約が無いと会わないという徹底振り。描く際にはズビロフの村人をモデルとして、彼らの写真を撮影し、それを使い、絵を描いていた。鍛冶屋、役人、建築士、弁護士など様々な職業の人たちをモデルにした。村人に衣装を着せて写真を撮ることを原案にしています。このモデルは叙事詩の中にも登場します。ミュシャは村人ひとりひとりの表情を大切にし、それを絵の中で表現しています。
村人たちにとっても、自分のおじいさん、おばあさんがこの作品にいると言って喜ぶ。これは舞台となった村人の特権なのでしょう。
歴史は皇帝や英雄のものではなく、そこに生きる庶民ひとりひとりが作り上げた、無数の思いである。
34歳で富を得るが、金銭にこだわりが無かったと言われています。つまり、きっぷが良かった。そんな太っ腹に助けられた画家の一人にポール・ゴーギャンがいます。新しい表現を求めて苦悩していたゴーギャンは、海を越えた南方タヒチに向かうが、その旅費を出したのはミュシャなのでは?という説もあります。
1939年にナチス・ドイツがチェコスロヴァキアに侵攻し、弾圧され、ナチス作成の要注意人物リストに、アルフォンス・ミュシャ、画家と記されています。危険な愛国主義者とみなされ、ミュシャはナチスの秘密警察のゲシュタポに逮捕され、ミュシャがどのような扱いを受けたのかは書類が燃やされてしまったので分かりません。5日間ぐらい取り調べを受け、逮捕から4ヶ月後、ミュシャは体調を崩し、78歳で亡くなります(79歳になる10日前)。前年にも肺炎をしていました。
ミュシャは生前、スラヴ叙事詩について、言葉を残しています。
「全ての絵の中で、私はひどい争いや血を連想させる表現を一切さけた。私の作品製作の目的は破壊ではなく、常に橋を掛けることにあった」
尚、堺 アルフォンス ミュシャ館で「あこがれ アルフォンス・ミュシャに魅せられた人々」が7/1(土)~11/5(日)まで開催されます。
ミュシャとその関連作家の作品・約500点は株式会社ドイの創業者でミュシャの世界的コレクターであった土居君雄氏(1926‐1990)によって収集されたもの。土居氏が新婚時代を過ごした堺市にコレクションを寄贈したことから、堺市には世界有数のミュシャ作品が展示されている、堺 アルフォンス・ミュシャ館があります。観覧料は一般500円、大・高校生300円、中・小学生100円。
これとは別に、ミュシャ展と協賛している伊藤忠商事が国内個人コレクター所蔵品による展覧会が開催されます。
FEEL THE Mucha HEART(~民衆のための芸術(デザイン)とチェコへの愛~)が6/2(金)‐7/2(日)、開催時間は11‐19、入場料無料で、伊藤忠青山アートスクエアにて開催されます。国立新美術館とは異なるミュシャの商業ポスター等の作品をメインにした展示会です。
港区北青山2‐3‐1 シーアイプラザB1F、銀座線「外苑前」出口4aより徒歩2分、銀座線・半蔵門線・地下鉄大江戸線「青山一丁目」出口1(北青山方面)より徒歩5分。
スラヴ叙事詩の展示となると東京ぐらいでしか開催出来ないのでしょう(絵画の規模が大きすぎる)。
ミュシャ展に関する記事は、これにて終了します。















