汐見橋駅の話 | 鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog

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福祉と公共交通の視点から、鉄道のあり方を熱く語る?
blackcat こと加藤好啓です。
現在の公共交通の問題点などを過去の歴史などと比較しながら提言していきます。
随時更新予定です。

南海汐見橋駅は、道頓堀駅として開業

 

阪神桜川駅と隣接してなにわ筋に南海汐見橋駅があります。

同じ場所にありながら、駅名が違うわけですが。所在地は大阪市浪速区桜川三丁目なので、桜川駅でも良いと思うのですが、元々この付近の汐見橋という橋があったそうで、それを駅名にしたそうなのですが。

開通当初からこの駅名なので今更と言うこともあるのでしょうが、中々紛らわしい存在です。苦笑

 

さて、この汐見橋駅ですが、開業当初は道頓堀駅と名乗っていたそうです。

しかし、道頓堀と言えば以下のイメージですよね。

グリコの看板があるあたりをイメージするのですが、汐見橋駅の付近は周りに華やかな建物は全くない空間にあります。

結局開業当初は、道頓堀駅と名乗ったものの、かなり無理が有ったかと思いますが、なんばに乗り入れできなかったのでなんとか大阪の当時の繁華街であった道頓堀にあやかりたかったのかもしれませんが、1年で汐見橋に変更されています。

 

南海が買収して、高野線も念願のなんば乗り入れ

さて、この汐見橋駅ですが、元々は高野線の終着駅であり、岸里玉出付近が高架化されるまでは、汐見橋からの線路は直接高野線に繋がっていました。

これは、元々が高野線は大阪高野鉄道と呼ばれる別の会社だった頃の名残です。

汐見橋駅は、大阪高野鉄道が堺東から延長した際の終着駅として開業させたもので、明治33年(1900)8月30日に開通したとされています。

多分大阪高野鉄道にしてみればもう少し難波付近に駅を設けたかったかもしれません。

当時は、今以上に神仏への参詣は多く、南海の場合和歌山市から和歌山線の橋本、そこから徒歩と言うルートであり、大阪高野鉄道の方が安くて早いこと、更に橋本から極楽橋までの鉄道建設を計画していること、更に南海鉄道にしてみれば、大阪南部地域(河内長野方面を含めて)を自社で独占したいという思惑もあって、大阪高野鉄道に合併を何度か打診したようです。

大阪高野鉄道にしてみれば、規模も営業収益も大きい南海鉄道に吸収合併されるのではないかという思惑があったようで、申し出を何度も断っていたそうですが、何度かの折衝ののち、南海鉄道が大阪高野鉄道と対等合併する形で話し合いがついたそうで、記録によりますと、大正11年(1922年)となっています。

この合併劇により、南海鉄道は大阪南部の私鉄として沿線を配下に置くこととなりました。

現在も本線がJR阪和線と競合することと比べれば、河内長野までは近鉄が乗り入れるものの、運転本数などでは南海が圧倒しており、高野線は南海の独占と言っても良い状況にあります。

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さらに、このとき同時に買収した、高野大師鉄道(現在の橋本~極楽橋)間が戦後、近鉄から独立する際の受け皿会社になったわけで、もし独立したこの会社がなければ、南海は戦時統合による合併から分離することが出来ず、近鉄南海線・近鉄高野線を名乗っていたかもしれないですよね。

小運転区間(なんば・住吉間の電車線を活用)

 

こうして、大阪高野鉄道を配下に収めた南海鉄道は、岸里駅から、なんばまで直接乗り入れが実現し、住吉までの各駅停車に使っていた小運転の線路を使ってなんばまで乗り入れるようになりました。

最初は単線で、その後複線化されて、高野線は原則的に「なんば」に乗り入れるようになり、汐見橋からの列車は逆に直接堺まで乗り入れできるように連絡線が設けられました。

現在の高野線は長らく、住吉公園(現在の住吉大社)までの小運転列車用として開業した路線に乗り入れる形となっており、岸里玉出付近まで高架になる以前は、南海本線の小運転(区間運転)の列車も現在の高野線の線路を使っていたようです。

1970年頃までだったようです。

さらに、高架前は汐見橋からの列車は住吉東まで延長運転していたそうですが、現在は岸里玉出で線路が分断されているため汐見橋線の列車が高野線に乗り入れることはないです。