国鉄旅客輸送今昔 73 順法闘争と落書き | 鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog

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福祉と公共交通の視点から、鉄道のあり方を熱く語る?
blackcat こと加藤好啓です。
現在の公共交通の問題点などを過去の歴史などと比較しながら提言していきます。
随時更新予定です。

順法闘争と春闘と・・・。
最近は、ストライキという言葉もあまり聞かなくなりましたが、昭和40年代後半から50年にかけては春といえばストライキの季節と言われていました。

日本の場合、会計年度の多くは4月であり、4月に賃金の改定が行われていました。

そこで賃上げをどれだけ獲得できるかが、労働組合の腕の見せどころであり、逆に経営者側にすれば、如何に内部留保を多く作るかがこれまた経営者の手腕というか・・・、そうしたぶつかり合いが「春闘」と呼ばれる春の風物詩でした。

鉄鋼・電機と呼ばれた重厚長大産業の賃金が決まると、他の産業もそれに準拠した形で賃金が決定されていくとして、その賃上げ額は大変注目されたものでした。

当時は、私鉄各社も昭和40年代に統一行動としてストライキを行っていました、しかし、国鉄がストをすると必然的に私鉄に利用者が流れることから、ストライキをするよりもストをしない、もしくは集改札時限ストなどを行うなど、旅客への影響を最小限にするほうが結果的に儲かり、自分たちの待遇改善、賃金上昇を狙えるとして、国鉄のような派手なストライキは行わなくなっていきました。

また、ストが行われる4月になると、貸布団屋が儲かるという、そんな時代でした。・・・ストライキで電車が止まるので家に帰れない会社員が会社で寝泊まりするため・・・という、冗談みたいな事もありました。

いわば、風が吹けば桶屋が儲かる式の事もあったりしたのです。

 

ということで、昭和40年代には、生産性教育の概念を受け入れて実践に移していったのが私鉄各社であり、真逆を行って、盛大にストライキをしてくれたのが国鉄・・・でした。

国鉄は、公務員に準じる、公社職員ですので、スト権を剥奪されていたのですが、違法なストライキを繰り返していました。
ストライキをする度に、処分として首謀者【組合幹部を解雇】して、翌年もまた同じようにストライキをするというなんとも凄い時代でした。

 

この辺は、総評をリードしているのは国労や全逓であるという意識が根底に有ったのではないかと思われます。

総評をリードするために積極的に政治ストにも参加する、そして、ストライキを繰り返せば労働者の団結がより強まるので、より一層ストライキに邁進していく、そこで、解雇者でも出ればそれこそ弔い合戦ではないですが、余計に労働組合としての結束は固くなり、当局と対決姿勢を見せる、そんな悪循環であったように感じます。

昭和44年9月号の国鉄線という部内雑誌を参照しますと、世論アラカルトで下記のような記事を見ることが出来ます。

少しだけ引用してみようと思います。

 まず朝日は、「国労の第三十回大会はストでたたかう姿勢’をはげしく打出した大会になった」と総評したあと、ストじゅずつなぎの運動方針を生んだ背景は「……国鉄財政再建の名による新しい16万5千人大量合理化で、組合員が職場を失っ
たり、配置転換されるのではないかという危機意識が強く作用し、また同時に安保・沖繩の政治闘争で国労こそ総評組合の先兵にならざるをえない、という気負いがその支えとなっている」と論評している。また毎日も、同様に春闘などすべての闘いを「スト」で闘うことを強調していたが、サンケイは、さらに首相訪米反対スト等を運動方針の柱の一つとして打ち出した背景について「ストを重ねるにしたがって組合の意識が強くなるという最近の国労組合員の意識調査にもみられるように、昨年の五万人合理化闘争や運賃値上げ反対の3.18ストを通じて。政治ストへの傾斜をつよめたものとみられる」と報じていた。


なんといっても、ストライキだけならまだしも、これだけは子供心にも許せなかったのは車体への落書きでした。
不当弾圧粉砕とか、鉄労粉砕・・・等々、かなり過激な言葉が機関車側面に大きく書かれているのは正直違和感というよりも怒りを覚えたものです。

こんな風に落書きが平然と行われた時代でしたね。

当時の雰囲気を画像処理で再現してみました。(^^ゞ

昭和50年頃は、マル生運動の失敗により現場管理者が何も言えない状況があったこともあり、ある意味組合のしたい放題状態であったことは、国民にも組合員にも不幸でした。

実際は、ペンキではなく、石灰を水で溶いたもので書かれていたようです。(ペンキ書きとありましたが、当時の文書で確認できましたので訂正)

 

そしてもう一つ、順法闘争についても語っておかなくてはなりません。

順法闘争というのは、国鉄当局はサポタージュとして対処したいとしていますが、ストライキとは異なり業務に就いている点が異なります。

皆さんは、交通信号が赤は停止、黄色は停止、ただし停止できない速度で交差点に進入もしくはしつつある場合はそのまま通過してもよいとされていますが、鉄道信号の場合は45㎞/h以下で通過、黄色信号2個点灯の場合は警戒信号という意味で25㎞/h以下の速度で通過となります。ただ、こうした青色以外の信号ではATSが動作するわけですが、ここで下記の戦術が生きてくるわけです。

これが鉄道における一般原則なのですが、順法闘争では、信号が黄色を現示していた場合に一旦停止しするなどの行為を繰り返すことで、遅れを増大させていくといった手法がとられました。

この辺は、「動労、国労を斬る」 全貌社 昭和50年4月初版から引用してみたいと思います。

 

動労文芸連盟に所属する篠原貞治氏が書いた「七三年三月運転保安確立順法闘争を担う」という記録論文を紹介しよう。
「動労は『運転保安確立』を要求して、一九七三年三月五目零時から<強力>な順法闘争に入った。今迄の闘争は、初め順法闘争Aをやり、解決がつかない場合には順法闘争Bにするというのが普通の方法であった。順法闘争Aというのは『遅延列車の回復運転は行わない』というのが主であり、順法闘争BはAプラス『組合員ひとりひとりが自ら安全運転をやり遅れを生み出すこと』と『ATSが鳴ったら必ず停止する』というのが主である。しかし、今次闘争はいきなり順法闘争Bに突入し、その上順法闘争Cの戦術も用意しているという大きなものである」

 

として、「ATSが鳴ったら必ず停止する」といった闘争を繰り返すことで、列車を遅らせる行為を行っていたのでした。
本文では、実際の乗務員の記述もありますが、ここでは割愛させていただきます。
ご興味がございましたら、ぜひ図書館などで探してみてください。
 

そして、国労や動労は、国民からのは反発があるのも承知としながらも、昭和50年に「スト権スト」と呼ばれる、前代未聞のストライキを敢行します、結果・・・

国鉄は更に衰退していくことになるのですがその辺は、国有鉄道運動史。

 

国鉄労働組合史詳細解説 39-1

国鉄労働組合史詳細解説 39-2

また、機会がありましたらそのへんも語らせていただきます。


今回は旅客輸送と言いながら全く旅客輸送関係無かったですね。(^^ゞ

 

 

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