国鉄旅客輸送今昔 57 EF52 「急行きのくに」をけん引する | 鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog

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福祉と公共交通の視点から、鉄道のあり方を熱く語る?
blackcat こと加藤好啓です。
現在の公共交通の問題点などを過去の歴史などと比較しながら提言していきます。
随時更新予定です。

かつて、大阪弁天町に「交通科学博物館」があり、0系新幹線と向かい合わせにEF52形電気機関車が保存されていました。
現在は、本館の中に鎮座されています。
この機関車は国産電気機関車としての価値があります。
それまでは、電気機関車も外国から輸入していた日本にしてみれば大きな進歩でした。
EF52は1-9が製造されるのですが、最終増備の8,9はEF53と性能が同等であったことから製造がすぐにEF54に改番されることになりました。

それが不幸の始まりになるとは神のみぞ知るといったところでしょうか。

国鉄のような大きな組織になると少数の車両というのは保守の面でも不利になるため極力集約する傾向にあります。
折しも、太平洋戦争が始まり貨物機が不足気味だったことも有りEF52改めEF54となった2両は、旅客用から貨物機関車として (昭和19年)に1号機が、1945年(昭和20年)に2号機が歯車比を低速向けに変更する改造が行われて、EF14形(EF14 1, 2)に形式番号が改められました。

 

戦後は中央線で走っていたようですが、昭和35年には大阪~吹田間で短区間運転及び大阪駅構内の入替作業に使われるようになりました。

 

最初に作られたEF52の1~7のグループは、最終的に全車両が阪和線に集結し、貨物列車の先頭に立つ事になりました。
性能的には旅客というよりも貨物列車をけん引するのに向いていたのかもしれません。

そんなEF52も寄る年波には勝てず、昭和48年には1号機が引退、その後奈良機関区で保存されて見事に交通科学博物館の切符を手に入れましたが、不幸なのは2号機、昭和50年の最後まで最終番の7号機共々頑張りましたが、あっさりと廃車解体されてしまいました。

 

和歌山操駅にて


7号機は、最後の最後で「臨時急行きのくに」牽引の栄誉に恵まれて、天王寺~和歌山間で急行列車をけん引することが出来ました。

この時は、特製のヘッドマークも誇らしげに阪和線を快走したものでした。
なお、阪和線区間を無事牽引したEF52は、折り返しの時間は和歌山駅で開放されて自由に写真を撮らせていました。

今では考えられないことですが、当時はそれが当たり前でした。

 

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