本業以外の仕事にも精出すことに

 

前回お話ししたように、保険のセールスをしていながらも徐々に行き詰まりを見せることとなりました。

時にはコンビニ弁当などを製造する工場での作業員をしてみたり、搬入現場などでの養生を行う仕事だったりと単純作業ではありますが、週払いなどで金が入ってくるアルバイトなどを併用しながらと言う時期が続きました。

最初の頃は、いい感じであった彼女との仲も険悪となり、最後は追い出されることとなりました。

 

それまで住んでいた、一戸建てからワンルームマンションに引っ越すこととなり、代理店業務も行っていたので、その書類などを入れる本棚と机を搬入すると寝るスペースも殆どないという状況でした。

 

最初は枚方の元居た家の近くに居を構えたものの、近くにいてくれるなと言うことで結局隣の寝屋川市に引っ越すこととなりました。

家賃3万円のワンルームですが、そこに机と代理店用に書類入れにしている本箱などを入れると、元々、前の所有者が置いて行ったベッドもあったため、足の踏み場もないほどでした。

当時はすでにアフラックの代理店をしていたので、営業活動に回る際はスーツ必須であり、スーツにネクタイカッターなどを何枚も準備していたのです。

スーツも新品を買えず、お恥ずかしい話ですが型落ちの古着のスーツを購入していました。

冬・合物は基本ダブル又は三つ揃え、夏場はシングル、時にはダブルと言うことで、押し出しがきくようにダブルのスーツを中心に買いあさっていました。

 

 追い出された原因は彼女の健康診断結果

 

代理店業務でバイクを使っていたのですが、途中で故障してしまい、それ以降は自転車で回る羽目になりました。

アフラックの代理店は、ジブラルタ生命保険株式会社を退職が決まっていた前後から準備していたもので、3か月ほどブランクを空けて開業することとなりました。

最初は枚方の自宅を兼事務所としていたのですが、その後前述のとおり彼女との仲が険悪となり追い出されることとなったわけです。

その原因の一つには、彼女自身が健康診断で癌の疑いということで検査に引っかかったことでした。

彼女の母親が、癌で若くして亡くなっていたので、余計にそういう思いがあったのと、私自身の保険での成績が安定していなかったことが重なったと言えましょう。

仮に、私が保険で安定した成績を挙げていれば。そのようなことにならなかったかもしれませんが、これは一重に私の甲斐性がないからであり、彼女を責めるつもりはありません。

 

 代理店は個人事業主

結果的には最悪の時期に代理店経営に乗り出したわけですが、代理店経営の場合当然のことながら個人事業主であり、賃金の保証などはありませんでした。

そして、一番困ったと思ったことは、紙1枚、鉛筆1本でもすべて自前だということです。

会社勤めの頃は、ボールペン無いからと勝手に持ち出していたものですが、自営業だと、そうした費用もすべて自分の財布から出ていきます。

正直これは痛かったというか、じわじわと効いてくるわけです。

 

 いわゆる白地開拓で勧誘することに

私自身は生まれも育ちも和歌山でしたので、当然のことながら寝屋川市も枚方市も全く未知の土地でした。

そして営業スタイルは昔ながらのピンポンダッシュ・・ではなくて、ピンポンを鳴らすのが一般的でした。

そこでアフラックの代理店の加藤と言うものですと名乗りながら訪問活動をするのですが・・・・正直効率は良くないわけで、なかなか成果に結びつかないわけで、チラシをポスティングして後日訪問するということを繰りかしながら回っていくのでした。

それでも、全く成果に結びつかなかったということもなく徐々にですが全くの未加入の家庭で保険に加入していただくという成果に結びつけることもできて、それはそれで自分なりの自信に繋がるのでした。

そして、活動範囲は寝屋川を中心に東は枚方市の樟葉、西は門真市まで足を延ばしたものでした。

毎日自転車で走り回るので、体系的には比較的スリムでしたが、いかんせんなかなか制約に結びつかないこともあって、非常に苦戦しながら仕事をしていたのでした。

そして、この頃から徐々に代理店業務の合間にIT関係のアルバイトを挟むようになり、収入の確保を図るようになるのですが、その辺はもう少し後の話となります。