昨日は、郵便局での募集の実態を書かせていただいたのですが、正直かんぽの募集は、貯金である当認識が郵便局員にもお客さんにも多く、保険=リスクヘッジという思いは希薄でした。

募集人が簡易保険と言わず簡易貯金と言っていたぐらいですから。苦笑

それと、民間の生命保険は保険募集人資格が必要ですがこれは国家資格ではないため、郵便局の簡易保険募集人はこうした試験を受ける必要がありません。変額保険も扱いませんので当然のことながら変額保険の資格もありませんでした。

 

その反面、養老保険・終身保険などの名前は知っていても、その仕組みをどこまで理解しているのか正直怪しい人が多数いたことも事実ですし、昨日お話ししたようにコンプライアンス・・・それはコンソメスープの親戚ですか?程度の意識の低い募集人がいたのも事実でした。

更には、自分の募集手当目当てにお客さんのニーズに沿わない保険を販売する外務員もいたものでした。

さて、暴露話は少しだけ置いておいて、当時の私の募集スタイルについてもう少しだけお話をしてみたいと思います。

 

郵政局から降格して簡易保険の販売を行うこととなったものの保険については殆ど無知、長年保険を販売してきたものからすれば私などは赤子の手を捻るようなものだったかと思いますが、それでも出来るだけ自分の頭で考えて実践していました。

資料などを最大限に活用するのも一つですし、後は非常にベタな方法ですが、地道に白土(しらち)開拓をしていました。

アンケートはがきなどを投入して、数日後に訪問するというもので、たまたまその日に課長代理が同行するとかで付いてきたのですが、そのご家庭、全く郵便局とは縁がなかったのですが、ご主人が亡くなりご自身も保険が気になっていたとかで、終身保険その他に加入していただくことができたのですが、課長代理にごっそりとは言いませんが、かなりおいしい部分を持って行かれたものでした。一人だったら、その日の最高優績に近かっような記憶が。

 

まぁ、課長代理にしてみれば思い切り棚ぼただったと思いますが、コツコツと地道に開拓するのが結構好きでしたので、その後ジブラルタ生命に転職したときも、アフラックの代理店をしていた頃もコツコツと白土開拓をしたものですが、非常に効率が悪いことは間違いなく、毎日100件のピンポンダッシュ(いえいえ、ピンポン押して逃げませんけどね。)ではなく、訪問を繰り返したものですが、殆ど会ってもらえるわけもなく、それでもめげずにまわっていた記憶だけはあります。

そうした意味では、継続は力と言うことを曲がりなりにも感じていたのと、どこかで何くそという気持ちも強かったのだろうと思います。

そうしているうちに、だんだんと保険の勘所が掴めるようになり、多少なりともほけんの販売の仕方が判ってきて、お客様に満足していただけるというか、納得していただける保険を販売できるようになっていきました。

特に、死亡リスクが低い女性の場合は2倍型特別養老保険(満期保険金が誹謗保険金の半分)という保険を勧めるとともに、男性などでは死亡リスクも女性より高くなりますので、比較的低廉な掛け金となるような5倍型を勧め。それと、他の終身保険等を組み合わせたりしたものでした。
ただし、10年満期ではなく出来るだけ子供が成人するまでとかと言う意味合いで、出来るだけ年数の長い保険をお勧めしていたので、保険料は相対的に安くなり、当然のことながら民間生保のようにAP(保険金)ベースではなく、AC(保険料)ベースなので、成績としては低迷するわけです。
例えば10年養老であれば概ね月掛けで7万から8万ですので、当日の成績は7万となるわけで、これで二人三人分と獲得すればそれだけで14万・20万の高額募集者として管理者からもちやほやされる反面、私のような販売方法だと、下手すれば保険料1万円以下なんて事も・・・そうなると当然、仕事をしていないと勝手にラベルを貼るわけです。

実際には、高額優績者には午前中制服で喫茶店で休憩して午後から見込み客(言い方は悪いが甘い客)から、契約を取ってくるなんて人もいたものです。
そうでない人もいますが、優績者はセースル専門ということで、CSLという名称で呼ばれていました、(多分、コンサルタントセールスリーダー)の略称だと思いますが、お世辞にも立派なコンサルではなくて、非常に怪しげなコンサルが多かったように思えます。私が優勢を辞めた後も風の噂で、CSLがお客様に詐欺まがいで訴えられたとかと言うはなしを何度も聞かされたものでした。
まだ、かんぽの闇として、無面接や改ざんなどの話が話題になる前の話です。
あと、私が恣意はいに回された前後から多かったのが、郵便局員の外資への引き抜きでした。

特に、アリコ(現在は廃業。メットライフ生命に吸収された)ジャパンに転職する人が多かったです。

他にも、日本生命に引き抜かれた人もいましたが、この方は結局日本生命では十分な成果を出せずそのまま退職したと噂で聞きました。その後は警備員の仕事をしていたとか・・・。

難いの大きな人でしたが、一方的な押し売りのような人であり、郵便局以外では務まらないと思いましたが案の定でした。

それでも、CSLと言うことで、セールス専担で仕事をしていたわけですからちょっと違和感でしたね。

まぁかくいう私は、集金専担でと言われるものの、集金だけをしていれば成績が上がっていないと言われる。

何時までも、専担になれないと言うことで徐々に嫌気もさしてくるわけです。
結局募集専担になることは堺局での間はありませんでした。

 

夏目漱石の草枕の言葉ではないですが、

「情に棹させば流される。 意地を通せば窮屈だ。 兎角に人の世は住みにくい。」

まさに、堺郵便局時代の私はそれに近い鬱屈した状況に置かれながら、仕事をしていたように思えます。

しかし、出世の道が完全の閉ざされており、正直そうした焦りも自分には意識はしていないながらもあったように思えます。

そして三回目の集金区替えで私にとって真っ黒な歴史ガスターとすることになるのですが、その辺は明日以降にお話をさ背手いただきます。