昨日は、警察官として巡回連絡などにまわったことを書かせていただきましたが、外勤警察官していた頃、勤務中はラーメンなどの麺類は頼むなとよく言われたものでした。

理由は簡単なことで、何があるか判らないから・・・実際、一口食べた時点で電話が鳴り慌てて現場臨場、結局戻ってきたら3時間ほど後で、ラーメンは哀れ伸びてしまっての状態になんてことも。

さらに、私が勤務していた交番は和歌山市ではかなり南端の交番であり、船津交番から以南は駐在所でした。

そして、その隣の派出所(交番)が和歌山築港派出所と言うのがありました、現在は「築港警察官連絡所」と言う名称で、休業中となっているようですが、この交番は水上警察分署を兼ねていて船舶免許を持つ警察官が配属されていました。

そこで隣接同士のよしみで、時々合同で無免許運転の取締とかをするのですが・・・。

結構仮免許運転中ならまだしも、無免許で運転している人が結構いたもので、日曜の昼下がりなどは結構な釣り場ではないですが。赤切符が獲得できる?場だったような記憶があります。

ちょっと、気の毒な気もしましたが・・・正直、切符を切ることよりも、申し訳ないなぁという気持ちになったものでした。

その反面、思い切り権力に反発したこともありました。

一方通行を逆行する自動車があり、停止を求めたのですが・・・開口一番、俺は○○県議会議員秘書の○○であるとまくしられたのですが、通行違反として青切符を切らせていただいたのですが・・・翌日、警察署に戻ると、当直の本書内の巡査部長に咎められる。

おい、昨日どこどこ付近で青切符切ったろうと・・・有無を言わさず提出したのですが。

切符は切るなと言われてしまって。

 

おいおい。そんなことで権力を使うのかよと・・・ちょっとした反発を感じたものでした。

その後、そうした機会はなかったのですけどね。

どこか、特権階級であると勘違いしていたのでしょうね。

そういえば、勘違いしているという話ではもう一つ思い出したことがありました。

 

以前にも書いたかもしれませんが、夜間の飲酒検問を行っていたとき、小さな路地なのですが1台の車を停止させて免許証の提示を求めたら、免許証を出さずに、窓を少しだけ開けて東京大学の学生証を見せた大学生がいました。

その後どうなったのか、記憶に無いのですが。

いかにも見下した風情で、年齢的には私とさほど変わらないわけで、高卒程度の警察官風情が・・・俺は天下の東京大学の学生様だと言いたかったんでしょうね。

実際に、学歴でマウント取ってくる人は少なからずいましたね。

京大とは言わずに自分は日本で二番目に優秀な大学を出たと二言目に言う人もいましたね。

あんた、大学卒業して何年経つ年と思いながら、多分あの頃でも30代後半くらいでしたので。大学卒業後10年以上経っているわけですが、何かのおりにそうした言葉が出ると言うことは、その人にはそれ以上に自分を誇れるものが無いのだろうと思うと哀れに思えたものです。

さらに、この人の何気ない発言が、私を日本一の国有鉄道研究家にしてやろうと火をつけたわけですので、あながち私にとっては害ばかりが有ったとは言えません。

 

そのときは、多少の謙遜を込めて(いわゆる2流の人でしたので)、私の行っている年表作成なんて夏休みの自由研究みたいなものですから・・・と。当時でもすでに10年以上のメンテナンスを行っていたのでそれなりのボリュームは有ったのですが、労働運動に関しては未だ未だ未知の領域というか十分知識を蓄えていませんでしたので、敢えてそのように発言したわけですが、そのときに言われた言葉が衝撃的でした。

 

まぁ、誰かの役に立つかもしれないよね。(知らんけど・・・言下に言ったわけでは無く、そうしたことを内包したように取れた)という言葉が非常に衝撃的で、それならば、きっと役に立つと思わせるサイトにしてやろう、唯一無二のものを作ろう・・・そういう思うが強くなったのです。

それ以降は、改めて労働運動を中心に検証を重ね、組合の運動史や大原社会問題研究所の労働年鑑などを参照しながら、自分なりに色々と試行錯誤しながら進めてきたものでした。

当然のことながら最初の頃は批判を浴びて、そんな誰得と言えそうな研究止めればと忠告していただける方もいましたが、自分的には「日本一の草履取り」になってやろうという思いからスタートしたのでした。

お陰様で、自分でも未だ未だ未熟ではありますが、鉄道史の専門家の一人としてその末端に認めていただけるようになったかなぁと自負している自分がいます。
その根底には、何くそという反骨精神と言いますか、しっかりとした芯があったからだと改めて考えてしまうわけです。

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