一時期、AIが人の仕事を奪うと言って仰々しく言われていましたが、ここに来て少しトーンダウンしてきたように思います。
実際問題として、AIが人間の仕事を奪うことは無く、より正確に言えば、代替できる仕事はAIに置き換わる部分は出てくると思いますが、全ての分野でそれが置き換わるものでは無いのは明白です。

例えば、鉄道が誕生したときに、多くの馬車が廃業を余儀なくされました。
自動車の発達は、人力車などを淘汰、【現在は観光目的では有りますが、本来の意味は失われている】していきました。
当然、車夫などはその仕事を失うことになりますが、これはAIが発達することで仕事が無くなると言う煽っている状況と同じです。

明治時代などには当然のことながらコンピュータなど無かったわけですが、同じことが形は違えど繰り返されました。
その反面、それにより新たな産業が興ったのも事実です。
馬車が廃止になる代わりに鉄道車両を操作する機関士や整備士と言った職業が誕生したり、AIの発達も同様のことが言えるわけです。
形を変えたビジネスが新たの誕生することになるでしょう。

そう考えれば、その辺に注力して、現在の介護職の不足に関してはAIロボットを開発して、介護者の歩行補助や入浴補助などはそうしたAIロボットに任せると共に、介護職の職員さんは事務作業であったりケアに関する情報なりを収集するなどステップアップしていくことに注力する方がより効果が高いのでは無いでしょうか。

AIというのがなんとなく言葉だけが一人歩きしているようですが、元々はコンピュータによる深層学習により自律型行動を取れるようにするコンピュータであると個人的には理解しています。
ですから、深層学習による例外の発見がAIの強みだと個人的には考えるのです。

将来、量子コンピュータが実用化されて、人間の脳に極めて近いものが誕生し、揺らぎと言いますか曖昧さというものをコンピュータが獲得したとき、本当に多くの仕事がうかうかすると奪われてしまう・・・そんな可能性はありますね。
ちょうど、手塚治虫氏が火の鳥で描いたような、コンピューターによる政策判断を委ねる・・・みたいなことになってしまうかもしれません。

私たちにとって大事なことは、そうした視点を常に見据えながらどのように行動していくべきかを考えることが重要なのではないでしょうか。

目先の問題だけを追い続けていると結局遠くのものが見えなくなるんです。
私は、何時も物事を考えるときには最低でも10年は陳腐化しないというか、僅かな手直しで使えるべきものを考えるようにしています。

そして、そのためには何をするかというと実は簡単で、歴史を総覧することなんです。
世界も含めて世の中は楕円形の軌道を回っているのでは無いかと思うほど、見事に何十年かの周期で変動が起こっています。
経済学では、経済循環と呼ぶようですが、正にこれなんですね。

そうした経済分析などを行い、歴史の上での循環を比較したりして今後の予測なり戦略等を考えるべきなのでは無いでしょうか。
なんか、昨今の野党を見ていると本当に大事なものが見えていないのか、敢えてみないのか知らないし、そうしたことに踊らされている民衆も多いように思えてなりません。

 

まぁ、私が世間ずれしているのかもしれませんが・・・。

 

 
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AIでモノクロ→カラーで、モノクロフィルムから再現された、在りし日の日方駅