私の父親は、天王寺鉄道管理局に勤めており施設部建築課の担当者として非現業業務を始めました、丁度私が幼稚園に上がった頃でしたので、、無意識のうちにそうした非現業への期間での仕事というものに漠然とした憧れを抱いていたのかもしれません。

私自身が、警察官を辞めて郵政に転職したのも、更には初級公務員では非現業にいけないので部内試験を受けてまで郵政局(非現業)に拘ったのも父親の影響があったことは間違いないでしょう。

私自身は更に上の本省を目指したかったのですが・・・・結局直前に結婚したこともあり、その夢は叶わずでした。

仮に結婚していなかったら郵政省への転進。更には又別の展開もあったかもしれませんが。こればかりは、歴史のIFですから、仕方ないですよね。

 

まぁ、そんな父親でしたが、幼稚園も地元の市立幼稚園ではなく私立の幼稚園に通わせるのでした。

そして、最初は2階の部屋を雀荘にするとして使っていたものの、私が小学校に上がる頃には、父親も仕事が忙しくなってきたからかもしれませんが、雀荘自体が廃業してしまい、しばし平和な空気が流れることとなりました。

そんなわけで、父親的には男の子だから(当時の風潮では男尊女卑の意識が強かったですからね)という理由で出来るだけ良いものを経験させようとしたのだと思います。
その辺は、結果的には本物を見極める目を養う事を多少なりとも意識できたと言えるかもしれません。
そして、幼稚園を経て小学校にと相成るわけですが、そこでも和歌山大学付属小学校に入学させようという話になりました。
 
当時の付属小学校の入試は試験と抽選の2段階方式、
すなわち、学力試験である一定のレベルの子供を選別して、その上で抽選を行い約半分の子供を合格させるというもので、複式学級(分校などでの教育を想定)と普通教室と言うことで、当時の学校の構成としては普通クラス2.複式クラス1×6ですので、非常に学校としてはコンパクトなものでした。
和歌山大学(旧和歌山師範学校)の教育実習のための学校的な要素もあるため毎年前期・後期に分けて大学生が教育実習にきて授業をするというのはお約束だったわけですが。
この学校に何とか父親は入れようとしたのですが、その熱量は子供にも伝わり、なんとしても子供心にも合格するのだという確信のようなものが芽生えたものでした。
「自分はこの小学校に入学することが既に決まっているんだ」
・・・何の根拠もない話なんですけどね。苦笑
ですので、地元の小学校の入校検査で、盛大に拒否したらしい・・・廊下で嘔吐する体調不良を引き起こすほどで、「この小学校に入るの嫌だ、僕は付属小学校に行く」と言って泣いたそうで、親を困らせたものでした。
1年遅らせても付属小学校に行きたいという・・・なんとも恐ろしい事を考えた子供でした。
しかし、念が通じたのか幸いにも一次試験は軽々通過、しかし第2関門の抽選だけは運を天に任せるしかないのですが・・・幸いなことに至誠天に通ずでは全くないのですが、幸いなことに合格することが出来ました。
しかし、幼稚園から一緒だった男の子は残念ながら抽選で外れてしまい離ればなれになってしまいました。
 
私にとっても、合格という結果は大きかったし、父親が子供を思う心に感謝を感じた時でもありました。
それまでは、麻雀だけをしてギャンブルに明け暮れていた父親とはまた違った側面を見たと思う気持ちが大きかったものでした。
しかし、その後も節目節目ではステージママならぬステージパパが私の前に立ちはだかることとなり、再び窮屈な感を感じることとなるのでした。