この記事は元々、2年ほど前に書きかけて放置していた下書きをベースに書き足したものですので、若干現在と違う部分もありますが、全体の考え方としては、現在にも通じるものがあろうかと思います。
共生という言葉の「甘さ」と、コミュニティの境界線
「ネットワーク(network)」という言葉が当たり前になった現代、私たちはその本来の意味を忘れがちです。語源を辿れば「net=網」と「work=働く」。つまり、複数の要素が網の目のように結びつき、機能する状態を指します。
かつて、インターネットが「インターネットワーク(情報の交差)」と呼ばれていた頃、そこには知的好奇心に満ちた開拓者たちの交流がありました。しかし、Windows95の登場から約30年。誰もがスマホで繋がれるようになった今、かつての「情報の質」や「秩序」は変質してしまったように感じます。
垣根が低くなることの代償
誰でも発信者になれる時代は、一見すると自由で民主的です。しかし、コミュニティの門戸が広がりすぎると、そこにあったはずの最低限のルールや共通認識が維持できなくなります。
質の高いコミュニティに、それに見合わない層が流入し、全体のレベルが下がっていく。結果として秩序が崩壊し、コミュニティとしての形をなさなくなる。こうした事態を避けるためには、実は「適切な排除」や「棲み分け」こそが、健全な運営に不可欠な要素となってくるのです。
「異文化共生」への違和感
この「コミュニティの維持」という視点で考えたとき、昨今叫ばれる「異文化共生」や「多文化コミュニケーション」という言葉に、私はある種の危うさを感じずにはいられません。
本来、日本文化とは、縄文時代から渡来人の文化を「融合」させ、新たなアイデンティティとして昇華させてきた歴史です。古いものを壊すのではなく、新しいものと混ぜ合わせ、自らの血肉に変えてきたのです。
しかし、現在語られる「共生」は、単に「異文化をそのままの形で、隣に置いて受け入れろ」という主張に偏っているように見えます。思想も根本的な価値観も異なる者同士が、ただ隣に並ぶことが、果たして本当に持続可能な形なのでしょうか。
一言目に外国人との共存とか、多文化理解をと声高に叫ぶ人や団体は、本質をどこまで理解しているのでしょうか。
互いの違う文化だけを楽しむというのと本来の多文化交流は異なると思えるわけです。
本来の合流というのは高いレベル、それこそ魂レベルと言えばスピリチュアルかと言われそうなので、その言葉は使わないとして、もっと言えば互いに、自己実現欲求レベルの外国人と日本人が本気で双方を認め合い、高め合う。いわゆるリスペクトされる状態であれば、それこそ、異文化共生は高いレベルで達成されるでしょう。
それゆえに、外国人が非常に自己実現欲求レベルを持つ人であっても、日本人が承認欲求レベルでしか共感できない人であったとしたら、恐らくその外国人は共存を諦めて心を閉じてしまうか、帰国の道を選んで。日本人は私の想像していた人たちでは無かったとなるかもしれない。
