鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog

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福祉と公共交通の視点から、鉄道のあり方を熱く語る?
blackcat こと加藤好啓です。
現在の公共交通の問題点などを過去の歴史などと比較しながら提言していきます。
随時更新予定です。

今回は、国鉄の無煙化を支えたDD51誕生までの流れのうち、DF50および同時期に誕生した試作機関車たちの歩みについてお話しします。

国鉄時代の標準的ディーゼル機関車といえばDD51ですが、昭和30年代初頭はまだ大出力の液体変速機が実用化されておらず、1000PS級の出力を伝えるには電気式を採用するほかありませんでした。そのため、国鉄ではDD50形以来、一貫して電気式が採用されることとなります。

しかし、当時の国鉄の線路は脆弱で、幹線でも37kgレールに木枕木という箇所が多く、地方線(乙線)などでは「軸重を14t以下に抑えること」が最重要課題でした。こうした制約の中で誕生したのが、日本初の量産電気式ディーゼル機関車DD50形です。

DD50は、三菱重工がスイスのズルザー社と提携して製造したエンジンを搭載していました。

元々の国鉄への提案では単機で運転できるという触れ込みでしたが、実際には2両1組での運用を前提としているという代物で、当初3両が試作的に導入されましたが、使い勝手が悪いとして、あと3両が追加購入されることとなりました、この機関車は冬期の暖房用蒸気発生装置(SG)を搭載しておらず、暖房車を連結する必要があるなど使い勝手にも難があり、結局6両の製造に留まりました。

 

 

 

試作機DF40(DF91)の登場と「横圧」の壁

DD50の課題を踏まえ、昭和31年に川崎重工で1両の試作機が誕生しました。それがDF40形(後のDF91)です。 川崎重工はドイツのマン(MAN)社と技術提携しており、DF40には連続定格1,200馬力のMAN V6V 22/30形エンジンが搭載されました。

試作機DF40の「一番乗り」と突きつけられた課題
当時、ディーゼル化を模索していた国鉄は、メーカー各社に対して広く試作機の提供を呼びかけました。これに応じる形で、昭和31年、川崎重工から「一番乗り」で提供(借り入れ)されたのがDF40(後のDF91)です。
しかし、土讃線での試験では、D51の約50%増という凄まじい「横圧」を記録。急曲線の多い線路を傷めるリスクが露呈し、改修のためにメーカーへ戻されるという、前途多難なスタートとなりました。
また、DF50 0番台と同じタイミングで提供された機関車にDF90が有ります、こちらもMAN形のエンジンを搭載していました。
さて、このDF40形並びに90形ですが、三軸の台車を採用したのが特徴です。
EF62などと同じような三動軸なのですが、主たる目的は軽量化で有ったと言われています。
 

DF50形機関車の誕生 

こうした試行錯誤を経て誕生したDF50ですが、DF50を設計する際には、C-C方式では無く、B-B-B方式が採用されました。

昭和32年にはズルザー型エンジンを搭載した0番台が登場します。その翌年には、マン型エンジンを搭載した500番台が投入されました。

 

こうした背景を受けて、

 

DF50形は昭和32年に試作車としてDF501が製造されることとなります。

DF50形0番台として誕生するのですが、この車両の最大の特徴は、中間台車で汽車製造と、三菱で構造が大きく違ったものであり、汽車製造の方がメンテナンス性は良かった反面、新三菱重工の方は横圧軽減効果は大きいものの、組み立てなどでのメンテナンスに難があると言われたものでした。

 

 

0番台が製造され始めた翌年には、MAN形エンジンを搭載したDF50形が0番台と並行して製造されることとなりました、エンジンも出力も変わるので別形式でも良かったと思うのですが、いたずらに形式を増やしたくなかったかと思われますが、500番代として別途製造されることとなりました。

 

余談ですが、無煙化を最優先で進めていた四国にはDF40の他、500番台と0番台が配属されましたが、紀勢本線は0番台、山陰線・日豊本線、奥羽本線など優等列車の運用などがあった地域では500番台が投入されたそうです。

 

技術的な正解を求めるだけでなく、時にはメーカー同士を競わせ、時には調和を図る。DF50誕生に至るドラマは、単なる鉄道車両の進化論ではなく、戦後日本が近代化を成し遂げるための『合意形成の物語』だったと言えるのかもしれません。 

 

 


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