鉄道ジャーナリスト加藤好啓(blackcat)blog

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福祉と公共交通の視点から、鉄道のあり方を熱く語る?
blackcat こと加藤好啓です。
現在の公共交通の問題点などを過去の歴史などと比較しながら提言していきます。
随時更新予定です。

今回は、東海道線の大垣夜行で親しまれた列車のお話しです。

どうぞ最後までご覧くださいませ。

 

東海道線最後の普通客車列車

 

青春18きっぷ利用者にとって、長年重宝された夜行列車「ムーンライトながら」は、2021年を最後にその歴史に幕を下ろしました。晩年は国鉄185系電車が使用されていましたが、そのルーツを紐解いていきますと、もともとは143・144列車という客車による普通夜行列車にたどり着きます。


東海道本線を走る普通夜行列車として活躍したこの列車について、今回はふかぼりしてみたいとおもいます。
ここで強調しておきたいのは、電車ではなく客車列車であったという点です。実は、この143列車・144列車は、昭和43年、いわゆるヨンサントオのダイヤ改正で廃止される予定だった列車でした。
この列車の廃止が新聞で報道されると、廃止反対の声が上がり、マスコミもこれを大きく取り上げました。その話を耳にした当時の国鉄総裁、石田禮助が、「そこまで要望があるのなら残そうではないか」と判断し、いわば鶴の一声で存続が決まったと言われています。

なぜ143・144列車が残されたのか。その背景には、石田禮助という人物の存在が大きかったように思えます。
石田禮助とはどんな人物だったのか
石田禮助は、1886年(明治19年)に生まれ、戦前、1939年(昭和14年)には、旧三井物産の代表取締役社長に就任、外国での勤務が長く、ニューヨーク支店長時代には、錫の取引で再び成功を収めた実績を持つ国際派の実業家であった、戦後は公職追放の後、国府津に居を構えていたとも伝えられています。合理主義者として知られた人物でしたが、十河信二に請われて国鉄の監査委員長に就任したことが、国鉄との関わりの始まりだったとされています。

監査委員長時代には合理化を積極的に推し進めた一方、総裁就任後は現場を見る中で、単なる合理化だけでは割り切れない人情の機微にも理解を示すようになったとも言われています。官僚出身ではなかったこともあり、国会議員に対しても忖度なく物を言う姿勢は、与党のみならず野党からも一定の信頼を得ていたようです。

合理主義者でありながら、最後は筋を通す――そんな石田禮介という人物の存在が、143・144列車存続の背景にあったのではないかと思われます。
 石田禮介総裁と森局長、AIカラー化
昭和41年3月天王寺鉄道管理局庁舎で森局長と石田禮助総裁、モノクロ画像をAIにてカラー化の上イラスト化


季節急行を定期普通列車に

 

実際には、列車番号はそのまま、しかし車両は客車から電車列車に、実は、季節臨(あらかじめシーズン毎に運転できるようにダイヤとして設定してある列車)である急行ながら大垣ゆきを、この141Mに充当することで問題をクリアしていたのです。
143列車が23:30であるのに対し、急行ながら(9315M)は、23:45、終着大垣は、急行ながらは、7:19だったのです。
こうして、143レ・144レは、客車列車から電車列車へと置き換えられたわけですが。興味深いことに、列車番号は客車時代と同じ143・144がそのまま使用されたのです。もっとも、時刻表には電車列車を示す、Mがついていますが。

 

東京発美濃赤坂行き?

 

急行「ながら」の終着駅は大垣でしたが、新設された143Mは、当初、運用の関係もあってか、大垣から東海道支線へ乗り入れるため、「美濃赤坂」行きとして案内されていました。利用者にとっては、馴染みのない行先表示に少し戸惑った方もいたかもしれません。実際に、翌年には大垣止まりに戻されたようですが、中々面白い話ですよね。

こうして誕生した東京発・美濃赤坂行き143Mですが、出発時刻は客車時代と変わらず23時30分。深夜の長距離利用者にとって、引き続き貴重な足であり続けました。

さらに、この列車には郵便物や荷物輸送という使命も引き続き残されることとなりました。
運転系統は実質的に大垣までとなり、関西方面へ向かう利用者は大垣駅で乗り換えが必要となりましたが、その代わり到着時間は大幅に短縮されました。客車時代には大阪到着が10時58分だったものが、電車化後は9時59分となり、実に1時間近い短縮となったのです。

逆方向も同様でした。従来の客車列車では大阪23時50分発、東京13時45分着というダイヤでしたが、電車化後は大垣20時32分発、東京4時35分着と、大幅なスピードアップが図られました。

こうして見ると、この列車は単なる夜行列車というだけでなく、首都圏へ向かう遠距離通勤客や、早朝到着を求める利用者を強く意識した列車へと変貌したことが分かります。

逆に、144Mは、豊橋始発22時01分の350Mという普通電車の運転区間を大垣まで延長した列車でした。関西側から見れば、夜にふらりと飛び乗れる長距離普通夜行列車が消えたことにもなります。
なお、客車から電車になったとはいえ、使用された車両は急行「東海」に使用されていた車両そのものでした。グリーン車(当時の呼称では1等車)2両を連結した12両編成であり、1等車利用者にとっては利用機会が増えたとも言えるでしょう。
 

様々人生を乗せて走る夜行列車

 

さて、ここで廢止前の143列車の当時の様子を鉄道ジャーナル1968年10月号で見てみましたところ、なんともい得ない空気感が漂ってきます。
この列車は、深夜まで残業した人々や、一杯飲んで終電代わりに利用する人たちにとっての「深夜族の足」として機能していた一方で、もう一つ重要な役割を担っていました。それが「マル救きっぷ」の利用者です。
マルキュウ、救護の「救」の文字を○で囲んだ赤いスタンプが押されたキップのことです。
正式には「救護施設入所者等旅客運賃割引」と呼ばれる制度で、生活保護受給者や救護施設の入所者、あるいは生活困窮により行政の支援を受けながら移動を必要とする人々に対し、普通乗車券を割引する制度でした。割引率は当時5割引で、現在も制度自体は形を変えながら残っています。

ただし、割引対象は普通乗車券のみであり、急行券や特急券などの料金券には適用されません。そのため、夜行の普通列車であった143M・144Mは、そうした人々にとって、数少ない長距離移動手段でもあったのです。

当時、この列車をレポートした、壇上氏はこの記事の中で、車掌が語った言葉として、5年前の冷害で、秋田からの男性3名が清水まで出稼ぎにきたものの、賃金が安かったので、手配師の言葉に誘われ、横浜まできたものの、結局働いた分の賃金は支払われず、暴行を受けたという事で、命からがら最初の勤め先で或る清水に戻ることとした、しかし所持金は殆どなくて、10円の切符(最低運賃のキップ)を購入して清水まで帰ろうとしたという話が記録として残されている。こうした人達の受け皿にもなっていたのが、このマルキュウ列車と呼ばれる、143レ・144レという夜行列車のもう一つの始形だったのかもしれない。
マル救きっぷの赤い丸囲み救印
戦後20年以上が経過し、日本が世界第二位のGNPを誇る経済大国へと成長しつつあった時代――その一方で、こうした制度を必要とする人々が少なからず存在していたという事実も、また忘れてはならないのかもしれません。
経済成長での華やかな光の中で、143列車は名実ともに人生の救済列車としての重みを持っていたのです。

大垣夜行の車内、眠る人々

因みに、143M・144Mが通常の300番台の列車番号になったのは、昭和48年のダイヤ改正でした。
それまでは、143レ・144レの流れを汲む番号が踏襲されたのです。

旧国鉄東海道線、昭和36年時刻表

 


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