カール・レイドルと言うベーシスト | Music and others

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 アマチュアバンド時代、私にとってお手本となったベーシストは、今は亡きこの人、カール・レイドルCarl Dean Radle)です。1980年5月に37歳であまりにも短い生涯を閉じてしまいました。 良くある、ドラッグとアルコールが原因での病死と言うことです。従って、活動期間がそれほど長いわけでもないため、セッションマンとしては数多くの名演が残っている訳ではありません。 アマチュア・バンド時代には、エリック・クラプトン(Eric Clapton)の楽曲を最も多くコピーして演奏していたので、彼のベースラインには思い入れが強くあります。


2006年には、出身地であるオクラホマ州が独自に制定している、音楽の殿堂(the Oklahoma Music Hall of Fame)入りを果たしています。95年の州知事の肝いりで創設されたのですが、錚々たる先達が殿堂入りメンバーには名を連ねています。

まずは、
   パティ・ペイジ(Patti Page)
   ウッディー・ガスリー(Woody Guthrie)
から始まり・・・・・、

そして、もう云わずもがなと言うべき、
   JJケール(JJ Cale)
   リオン・ラッセル(Leon Russell)
   デヴィッド・ゲイツ(David Gates)
   ジェシ・エド・デイヴィス(Jesse Ed Davis)
   ニール・ショーン(Neal Schon)
   ジミー・ウェブ(Jimmy Webb)
   ジム・ケルトナー(Jim Keltnor)
   ジェミー・オールディッカー(Jamie Oldaker)
    ※)カール・ラドルにより、タルサ・トップス()の一員として、エリッククラプトンのバックバンドに加わり、ドラムスを担当。
   チャック・ブラックウェル(Chuck Blackwell)
   エルヴィン・ビショップ(Elvin Bishop)
   ローウェル・フルスン(Lowell Fulson)
   チャーリー・クリスチャン(Charlie Christian)

取りたてて凝った作りのウェブサイトではありませんが、こちらに(↓↑)なります。
                      http://omhof.com/

まあ、”州興し”のために、ロックの殿堂(The Rock and Roll Hall of Fame)の向こうを張って創設したようにも見えますが、オクラホマ州という南部の州を認知してもらうのにはいいのかもしれませんね。

さて、カール・レイドルのベース・プレイですが、、70年代前半のセルフ・タイトルのソロ・アルバム『Eric Clapton』から、デレク&ドミノス(Derek and the Dominos)の『愛しのレイラ』(Layla and Other Assorted Love Songs)、そして、復活作となった『461 オーシャン・ブールヴァード』(461 Ocean Boulevard)の3枚を徹底的に聴き込んで、楽曲の構成、そして、彼の弾くラインを頭(指?)に叩き込みました。 

もう一つのお気に入りであったのが、ファヴ・フォーの一人であり、今は亡きジョージ・ハリスン(Geotge Harrison)のソロ・アルバム、『オール・シングス・マスト・パス』(All Things Must Pass)でした。




Carl-Radle-000





ところで、アナログ・レコードの時代では、あまりにも頻繁に特定の曲だけを聴き込むと、レコード盤の溝の物理的な磨耗により寿命が来てしまうようなこともありました。 と云うことで、アルバム『愛しのレイラ』は3枚買った記憶があります(現在も最後に買ったものを大事に所有しています、アナログ・プレイヤーがないため実際に音を出すことはできませんが)。


当時、我々がアナログ盤より楽曲のコード進行や各楽器の音を正確に拾うために利用していた手法は、オープンリールのテープデッキでした。4トラック19.5cmの規格のものでした。 本当はプロ仕様である、究極の"2トラ38"(10号メタルリールを装着し、38cm/secで廻す2トラックのテープデッキ)が欲しかったのですが、価格とテープ1巻での値段を考えると”高嶺の花”でした。

利点は再生時にテープスピードを可変できる点です。録音レベルの低いもの、音が籠って聴き取りづらい場合にはピッチの高い音に変えられるので、特に周波数に低いベース音を拾うのには重宝しました。

但し、このデッキは高価で当時の価格で12万円オーヴァーですから、最初に買ったグレコ製のエリクトリック・ベースの倍の値段しました。家庭教師の掛け持ちによる、アルバイト代は全て消えてしまいました。


勿論、もっともモノを言うのは聴感(絶対音感)と音楽理論の知識ではありますが…。鍵盤楽器とギターとの両方を弾きこなす力量があれば、オープンリールなぞ不要です。もっと年下の後輩にあたるバンドでは、あっさりとバンド・スコアを購入して全員が譜面とにらめっこしていると言う、世代間ギャップもありました。(懐かしい話ですね)


Derek&Dominos-000





さて、カール・レイドルは70年代において、エリック・クラプトン&ヒズ・バンド(Eric Clapton & His Band)の番頭格として、裏方に徹していた、"いぶし銀"のような存在だったと思います。ベーシストとしては、ポール・マッカートニー(Paul McCartney)直系のメロディアスなベース・ラインが得意だったと言えます。


ただそうは言っても、基本的に忠実なルート音から外れた音の使い方はしないタイプですね(派手な手数の多いタイプではなく、華麗なテクニックを見せるようなプライヤーではないです)。それでも、ジム・ゴードン(Jim Gordon)とのリズム・セクションは最強だと個人的には思っていました。





エリック・クラプトンのバックバンドである、通称タルサ・トップス(Talsa Tops)のメンバー集めから、取り上げたブルーズやゴスペルのアレンジには大きく貢献したことは周知の事実です。例えば、『461 Ocean Boulvard』での"Motherless Children"はクライテリア・スタジオで先に入っていた際にラフ・テイクとして用意していたそうです。ブラインド・ウィリー・ジョンスン(Blind Willie Johnson)の曲が元ネタになっていると言われていますが、同じ曲には聴こえません。


ベース・ラインの音の取り方として、印象に残るフレーズが数多くあるのは、やはり『Layla and Other Assorted Love Songs』(愛しのレイラ)ですね。特に印象に残っているのが、"Bell Bottom Blues"(ベルボトム・ブルーズ)、"Why Does Love Got To Be So Sad"(恋は悲しきもの)、そして"Layla"(愛しのレイラ)の3曲です。一体、何百回耳コピーのためにリピートして聴いたか分かりませんが。当時は完コピしていましたが、今聴くととても類似した音の拾い方をしているのが良くわかります。



1969年、ディレイニー&ボニー&フレンズ(Delaney, Bonnie & Friends)の一員としてエリック御大と出会い、ジョージ・ハリスン(George Harrison)の『オール・シングズ・マスト・パス』(All Things Must Pass)のセッションに参加し、更には、あの”バングラデッシュ救済コンサート”(the Concert for Bangladesh)にも出演しています。



ドミノス時代から長きに亘り、裏方としてエリック御大を支えて来たのですが、突然終止符が打たれてしまいます。『461 Ocean Boulvard』から『Backless』までの5枚のスタジオ・アルバムと約10年あまりの歳月の果て、1979年6月24日、ワシントン州シアトルで行なわれたライヴがタルサ・トップスの最後のステージとなりました。


エリック御大はあまり多くを語ってはいませんが、長きに亘りステージを共にしたからか「時おり、かなりレイジー(lazy)になる」ことがあり、そろそろ潮時と考えたようです。英国人気質は、そもそもアメリカ人とは全く合わないとは良く聞く話ですが・・・・・(これは、BB&A-Beck, Bogert, & Appiceを結成したジェフ・ベック も述懐していましたね!)。


タルサ・トップスの後、エリック御大は英国人だけのバンドを組んで、ワールドツアーを敢行します。この時の来日公演、武道館でのライヴが『ジャスト・ワン・ナイト』として発売され、セールス的には成功しました。この時は、2年続けて来日しましたが、当時の印象はあまりイイとは思っていませんでした。

非常に安定はしているが、これと言った変化はなく少しつまらない気がしていました。エリックのステージで、プロコル・ハルム(Procol Harum)の"青い影"(A Whiter Shade of Pale)を聴きたいとは思わなかったのです。

このライヴアルバム『ジャスト・ワン・ナイト』リリースの翌月、80年5月にカール・レイドルは亡くなってしまいます。対照的な出来事ですが、「少しばかり冷たい仕打ちではないかな」と思ったのは私の感情的な部分から来ているのかもしれません。


エリック御大は、あまり私的な感情を表に出す人ではないので、冷たいと断言するのはうがった見方かも知れません。


同じ、タルサ・トップスのディック・シムス(Dick Sims)がなくなった時には、来日公演のステージ(2011年12月10日の武道館、スティーヴ・ウィンウッド(Steve Winwood)との競演ツアー)で短いコメントを言ってから演奏を始めました。

今夜のショーを亡くなった友人、ディッキー・シムスに捧げます。彼のことを偲んで。』





◇ 若かりし頃のカール・ラドル(おそらく、Gary Lewis & the Playboysに加入した頃、23才?)

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◆ 私の所有するバンドスコア-”ベルボトム・ブルース”;

Bass-Line(Bellbottom)02





◆ 私の所有するバンドスコア-”愛しのレイラ”;

Bass-Line(Layla)




ベースラインのメロディックな構成においては、”ベルボトム・ブルース”、”愛しのレイラ”、そして、”恋は悲しきもの”の3曲において類似性があります。


さて、このインナー・スリーブの写真、分かる方は出自が何かすぐに思い浮かぶと思います。20歳代のエリック御大、そして、カール・レイドル、ジム・ゴードン、ボビー・ウィットロック、そして、デュエイン・オールマンです。化学反応は一瞬でしたが、凄い”贈り物”を遺してくれました。

Layla(Inside)CR-002





私の手元にもうベースギターは残っていませんが、記憶と指には今でもベースラインは残っています。



◇ Bell Bottom Blues by Derek & The Dominos;




              今は亡きカール・レイドルを偲んで……。