妊娠と乳がんと乳房再建2 | 強いことは優しいこと。

強いことは優しいこと。

2017年34歳で乳がんになった私の思うこと。
徒然なるままに。
日々変わるであろう私の気持ちと、変わらないで欲しい普通の毎日を。

すっごーい時間が経ってしまったけど前回の続きから。

 

形成外科の主治医の移動に凄く動揺した私は、
主人に電話をして事の顛末を伝えた。

主人はあっけらかんと『移動先の神戸まで行けばいい』と私に言った。
こういうフットワークの軽さと、何よりも考え方が似ている部分が私が主人にしっくりする所で、
やっぱりそう思うよね?
で一旦話は落ち着いたんだけど…

でもよくよく考えたら、確かに移動先の病院までは新幹線で行けるけど、
子供ができてからそんな悠長に通院や入院できるのかって考えたら否!

とゆうかそもそもそんなに子供を望むのか?ってとこにも焦点が行きだして。
いつ授かれるかわからない子供をいつまでも待つなら、
もう今作っちゃえばいいのでは…

って事で乳輪乳頭、先生の移動前に作って下さいってお願いしたのは、
移動を聞いてから5時間もしない内だった(笑)

乳輪乳頭の再建のための診察予約までそんなに悩みはしなかった。
でも実際に先生の診察で提案された再建方法は私を色んな意味で悩ませた。

先生から提案された方法は、

乳頭は移植ではなく新しく作り、乳輪のみを移植するというものだった。
乳頭はタトゥーで色を着色するのだけれど、私の通う病院では行ってないとの事だった。
タトゥーは色が退色してしまう事が多く、保険も適用外。
おまけにこの病院では色を入れれないのなら乳頭は白いまま。

それは私のやりたい再建ではなかった。

私の乳頭が切除前から白いならそれでも納得だけど、乳頭白い人なんている訳ないし。

乳輪乳頭まで再建すると決めたなら、もう終わりにしたかった。
だから私は移植での再建希望を伝えたんだけど、
先生は授乳へのリスクを考えてのことであまり乗り気ではないように感じられた。

先生のその顔を見たとき、なんだか急に自分が将来子供を欲してるとは思えないくらい、母性を持ってないように感じた。

診察後に術前検査に回りながら、なぜかずっと泣きたかった。
よく分からないけれど自分の出した答えが、すごく間違ってるって暗に言われたような気持ちになって。

だって子供はできないし。
タモキシフェンも子供ができないなら何のための休薬かも分からないし。
乳腺外科の先生も、婦人科の先生も、不妊外来の先生も、一刻もはやくタモキシフェンを再開できるように最短での妊娠をって言うし。

主人はいつだって私の意見を優先してくれて、私のしたいようにすればいいって言ってくれるし。
わたしは彼の言葉を信じてるし。

え。
子供に母乳をあげれないかもって選択をすることって、そんなに悪いことなの?

先生じゃなくたって再建はできるなんてわかっているけれど、
もう終わらせたい。

母乳?
ミルクでいいし。

子供は母乳で育てるのが一番。
そうこじつけて決めていたのは紛れもなく自分自身だったのかもしれない。

腫れ物に触れられるみたいに『子供がいなくても幸せだよ』なんて言葉、
本当に子供が欲しくて欲しくて仕方が無くて、色んな手段を講じたけれど出来なかった人が選択した結果じゃなくちゃ今は聞き入れたくない。
どうして結婚=子供とか、
出産=主婦とか
女=家事とか
男が家事を『手伝う』とかの勝手なルールばかりがこの世の中に横行して。
人は人。
私は私。
っていう当たり前のことは忘れ去られてしまうんだろう。

母乳だってそうだよ。
私はまだ左側の胸が残っているけれど、両側乳癌の人はもう乳腺がなくてあげれない。
両乳残っていたって母乳がでなくてミルクで育てる人。
子供が親元を離れるまで簡単に見積もってじゃあ18年間として、
母乳を飲む期間ってどんだけよ?
母乳を与えることでたくさんの栄養を与えられるとか、そんなの分かり切ってる。

でも子供は母乳で育つんじゃない、たくさんの人の愛情で育つんだ。
だから私は自分の選択を後悔しないようにここに記す。

 

下書きしたまま半年くらい経ってしまったけど、この時の意思は変わってないよ。