ロバート・ローズ①~横浜で咲いた一輪の薔薇~ | 野球とか、ぼちぼちと。

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1993年、横浜大洋ホエールズは球団名を「横浜ベイスターズ」に改称した。監督には新たにホエールズ初優勝時の主力であった近藤昭仁が就任、ユニフォームや球団旗など何から何まで一新された。

それは外国人選手も例外では無かった。打点王を獲得したラリー・シーツ、俊足強肩のR.J.レイノルズがチームを去った。そしてその2人に代わる「助っ人」として、グレン・ブラッグスとロバート・ローズを獲得する。という訳で今回はロバート・ローズを取り上げる(グレン・ブラッグスもいずれ)。

 

1967年にアメリカ・カリフォルニア州で生まれたローズ。85年に地元カリフォルニア・エンゼルスと契約し89年にメジャーデビュー。その後はメジャーと3Aを行き来する状態ではあったが、球団はローズを高く評価していた様で「人間性は良く、プレーに取り組む姿勢が素晴らしい。いずれ伸びる」と見ていた。実際、大洋の渉外担当であった牛込惟浩は89年に初めてローズを見た時に「日本でもやっていける選手だ(長年の経験から来るカン)」と思い渡米する度にローズのプレーを確認しつつ獲得できないか関係者に確認していたという。

そんな中、ローズに一つの転機が起きる。92年5月、その時はメジャー(エンゼルス)にいたのだが、チームでのバス移動中に事故にあってしまったのである。その際に右足首を捻挫した事もあってローズはマイナーに降格してしまう。野球が出来ない失意の中にいたが、この事故を知った牛込氏は夏に渡米した際にローズの怪我の具合を確認し、改めて獲得の意思をエンゼルス側に示している。

当時メジャーでは球団拡張のドラフト(93年にコロラド・ロッキーズとフロリダ・マーリンズが誕生)も控えていた為、それを待っていてはローズは新球団に指名されてしまうと感じた牛込氏は東西奔走。その甲斐もあって無事獲得に成功したのである。

 

1年目からローズは期待以上の働きを見せた。シーズン開幕からブラッグスに続く5番打者として、ブラッグスが怪我で離脱して以降は4番打者としてチームを牽引した。

終わってみれば130試合フル出場を達成し、打率.325(リーグ2位、1位の阪神・オマリーとは.004差)に19本塁打、打点はリーグトップの94(ヤクルト・広沢克己とタイ)そして得点圏打率もリーグトップの.372を記録している。

ローズは翌年以降も安定した活躍を続ける。そんなローズに関して私は2つの点に注目した。

まず1つ目が「得点圏打率の高さ」である。

 

     打率   得点圏打率

1993   .325            .372

1994       .296            .323

1995       .315            .339

1996       .304            .367

1997       .328            .370

1998       .325            .337

1999       .369            .394

2000       .332            .354

 

ご覧の通り、全ての年で得点圏打率が打率を上回っている。得点圏打率は信頼性の高くない指標であるという意見も聞かれるが、どの年も打率を上回りかつ最低でも.320以上というのは驚嘆すべき事であると思う。私はリアルタイムでローズを見ていた頃、この選手はチャンスでいつも打ってないか?と真剣に考えたものであった。

そしてもう1点は「欠場が殆ど無い」事である。1番多く欠場した年でも98年の124試合(全136試合)、他の年はどれだけ多くても欠場を5試合以内に留めている。常に五体満足であったわけでは無いと思う。そうでありながらも運動量の多いポジションを守りつつ出場し続け攻守に活躍した所が、現在でも歴代最強の外国人選手の一角としてローズが挙げらている所以であると思う。

 

さらにこれだけローズが日本で活躍した理由…技術的な部分は勿論であるが、メンタルの部分も大きいと私は考える。来日当初のローズは、

 

〇「日本に来た以上、俺は日本式の練習は全てやる」と宣言、外国人選手の殆どがやらない夜間練習もやろうとしていた(流石に止められた)

 

〇来日してすぐに英和辞典を購入、日本語の勉強を始める。英和辞典は常に持ち歩いていた

 

〇帽子のツバの裏には「NINTAI」の文字が

 

〇「日本という国、習慣、野球に溶け込むべきだと思った。だから日本人と同じものを食べ、同じ言葉を話したい」と語る

 

牛込氏はそんなローズを見て「ハングリー精神の権化だ」と胸を打たれたという。

ローズと言えば、「日本に馴染もうとしない、日本語を一切覚えようとしない」「取材嫌い」「外国人選手なんて所詮使い捨てと発言した」とファンにとってはあまり良い感じを受けない印象も強かったと思う。私もロバート・ローズ=成績は素晴らしいが気難しい人というイメージを持っていた時もあった。しかし1年目から好成績を残せたのは「日本を受け入れ、絶対に成功する」といった気持ちや行動があったからであろう。ただ在籍年数が1年1年延びていくにつれて、ローズの心境にも変化というか…色々とあったのかなとは思う。

 

93年の来日以降素晴らしい成績を残し続けるローズ、そしてチームも投打に軸となる選手が現れ、97年には7年ぶりのAクラスとなる2位と地力もついてきた。

そして98年、38年ぶりの歓喜が訪れる―。

(続く)

 

 

(参考文献)

『サムライ野球と助っ人たち』牛込惟浩著 三省堂 1993 

『サムライ野球と助っ人たち【旅日記編】』牛込惟浩著 三省堂 1996

『日本プロ野球 助っ人外人ぶる~す』ぶんか社 2006

『週刊ベースボール別冊 空風号』ベースボール・マガジン社 2021

 

(参考サイト)

日本プロ野球記録:ロバート ローズ (2689web.com)

 

【プロ野球仰天伝説87】日本語を覚えず、日本食を口にしなくても成功をつかんだハマの好打者【助っ人トンデモ話】 | 野球コラム - 週刊ベースボールONLINE (findfriends.jp)

 

(一部敬称略)