クラレンス・ジョーンズ~本塁打か三振かそれとも四球か~ | 野球とか、ぼちぼちと。

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野球には色んな「率」がある。防御率・勝率・打率・長打率・守備率…こういった数字とにらめっこしながら、この選手はどうだあのチームはこうだと思いを巡らせたり、誰かと話をするのも野球の楽しみ方の一つであると私は考える。

そんな「率」の中でも、近年において評価を高めたものの1つが出塁率である。

オークランド・アスレチックスがこの出塁率を重視したチーム作りで成功した事や、セイバーメトリクスが発展して一気に評価が高まった指標である。

それまでは最高出塁率(数)のタイトルこそあれど認知度は高くなく、私自身昔は個人成績の各種ランキングを見ても「出塁率?あ、そう」くらいの認識度であった。

 

今回述べるのはクラレンス・ジョーンズ、南海ホークス・近鉄バファローズで活躍した長距離砲である。

1941年にアメリカ・オハイオ州にて誕生。1959年にフィラデルフィア・フィリーズと契約したものの長いマイナー暮らしが続く。1967年にシカゴ・カブスでメジャー初昇格を果たすが、目立った数字は残せなかった。

メジャーでは結果を残せなかったジョーンズであるが、1970年に南海ホークスに入団してからは目覚ましい活躍を見せる事になる。

1970年、1年目から33本塁打 88打点の活躍で前年に戦後初の最下位に沈んだチームを2位に引き上げる働きを見せた。

また強打のジョーンズが5番に入った事でマークが分散されたのか、主砲・野村克也も復調し打率.295 42本塁打 110打点の好成績をマークしている(前年は打率.245 22本塁打 52打点、故障もあったとはいえレギュラー定着後最低の数字だった)。

その後も野村克也に次ぐ大砲として活躍し、リーグ優勝を成し遂げた1973年もチーム1の32本塁打を放っている。南海に入団した70年~73年までの間、ジョーンズは本塁打を33・35・32・32と安定してかっ飛ばしていたが73年限りで南海を自由契約となる。

 

打率の低さ・三振の多さがその理由であった。1年目からの打率は.244・.231・.292・.244、三振は102・94・82・93である。打率は72年を除いて全て.250以下、三振も72年を除いて全てリーグ最多を記録してしまう。

現在であれば30本塁打をコンスタントに打てているならば多少粗くとも良しとなりそうだが、当時は今よりも打率・三振に対する見方も厳しく30本塁打を打っているからといえそれらをカバー出来るものでは無かったのである。

 

南海を自由契約になったジョーンズであるが、野球の神様は彼を見捨ててはいなかった。同じパ・リーグの近鉄バファローズがジョーンズを獲得したのである。

ちなみに前年の近鉄はチーム本塁打がリーグ最少の113。4番の土井正博以外にスラッガーがいないチーム事情もあったと思われる(ちなみに南海も73年のチーム本塁打は113であった)。

球団が変わってもジョーンズの長打力は変わらなかった。74年は38本塁打、76年は36本塁打で2度の本塁打王に輝いている。打率が低い事や三振数の多さも変わらなかったが、一発長打の魅力に溢れる名選手であったのだ。

 

そしてここからが本題(?)である。ジョーンズは色々なレア記録を残した事でも知られる。

 

〇2リーグ分立後両リーグ初となる外国人打者の本塁打王

意外だが74年のジョーンズが初めてとなる。ちなみにセ・リーグはご存じ85年のバース(阪神)。また1リーグ時代は38年春にハリス(イーグルス)が6本で本塁打王に輝いている。

 

〇来日1年目から5年連続30本塁打以上

70年~74年に記録。この記録はジョーンズが史上初めてであった。ジョーンズの達成以降はペタジーニ(ヤクルト・読売:99年~03年)まで達成者は現れなかった。あとはT.ウッズ(横浜・中日:03~08年)だけである…はず。

 

〇打率最下位で本塁打王

前述の通り、ジョーンズは74年に見事本塁打王に輝いたが、打率.226は規定打席に到達した選手で最下位であった(ちなみにブービーは日本ハム・大杉勝男で.234)。これもジョーンズが史上初めてであり、他は1987年のランス(広島)と2011年のバレンティン(ヤクルト)しかいない。

 

〇シーズンの安打数より四球数が多い

こちらも74年に記録。安打数93に対し、四球数は96であった。規定打席に到達しながらこの記録を残したのはジョーンズ意外だと、読売・王貞治(66年・71年・74年・75年の4回!)と楽天・A.ジョーンズ(14年)のしかいないのである。

 

さらにジョーンズはリーグ最多三振には5度なってしまっているが、リーグ最多四球も3度輝いている。日本にいた8年間で選んだ四球の合計は565、平均にすると約70個となる。加えて打率に対しての出塁率が.100を超えたシーズンは6度にもなる。

ここでようやく冒頭の部分とつながって行くのだが、ジョーンズは喫した三振も多かったが、選んだ四球も多く出塁率も高い選手(日本での通算出塁率.356)であった。

当時は出塁率はあまり見向きもされず、低い打率に三振の多さばかり目に付いていたと思うが…様々な指標が発達した現在でならもっと評価される選手の一人であると思う。

 

1977年のシーズンを最後に日本を去ったジョーンズは1シーズンだけメキシカンリーグでプレーし引退。その後はアトランタ・ブレーブス、クリーブランド・インディアンスで打撃コーチを務め、数々の名選手を指導している。2001年にコーチを辞してからは…情報はないが恐らく悠々自適な暮らしを送っているのだろう。今年の11月で81歳となる。

 

最後に余談であるが、ジョーンズは人格も良く紳士であったという。そういった所も日本で8年もの間プレーできた秘訣の1つであったのだろう(76年にジョージ・アルトマンが持っていた外国人選手の通算本塁打数を更新した際にも「アルトマンの様な素晴らしいバッターになるために努力を続けたい」とのコメントを残した)。ただ美人のワイフには頭が上がらなかったそうである。以上。

 

 

(参考文献)

『菊とバット 完全版』ロバート・ホワイティング著 松井みどり訳 早川書房 2005

『門田博光の本塁打一閃 ホームランに魅せられた男』門田博光著 ベースボール・マガジン社 2006

『プロ野球100人 vol.2 打撃の達人』日刊スポーツ出版社 2007

『南海ホークスFOREVER 緑の鷹よ永遠なれ!』 ベースボール・マガジン社 2015

『週刊ベースボール 別冊立春号 よみがえる1970年代』Part.1 ベースボール・マガジン社 2022

『週刊ベースボール 別冊新緑号 よみがえる1970年代』Part.3 ベースボール・マガジン社 2022

 

(参考サイト)

年度別成績 1973年 パシフィック・リーグ | NPB.jp 日本野球機構

 

Clarence Jones Minor, Winter, Japanese & Mexican Leagues Statistics & History | Baseball-Reference.com 

 

(敬称略)