さすがに、本の形をしたものを読む余裕もなく、いま読んでいる1本が終われば明日まとめて納品すれば、またひたすら読む、読む、読む。エンタメを求められているものとしては、普遍的なおもしろさがないと、と思うのだが、どうしてこういうのばかりを書いてしまうのだろう。おーい。と、誰にも言えないので、ここに書いてみる。
 書評本や、本の話が書かれた本を読むと、読んでみたい本がずらずらっと脳内に列記される。しかし、琴線にふれた本のほとんどが絶版本ばかりでまいってしまう。もちろん、ひとむかしまえに比べると、田舎に住んでいても、ネットの力でオンライン古書店で買うことは可能。送料も交通費とわりきればいいけれど、いいなあと思ってもすぐ流通されなくなってしまうのは、もったいない。けれどけれど、これに答えはなく、新しい本がでれば、以前出た本の場所を整理しなくてはいけないのは、自宅の本棚と同じ。いつまでも欲しい本ばかりを手元に置いておくのは、よほどの場所を持っていない限りムリ。だから図書館があるのだけれど、ああ、これも哀しや、田舎の図書館には、置いておくべきと個人的には信じて疑わない古典がたいてい置いていない。くぅぅ。

 なぜ欲しい本が絶版本ばかりなのかしらん。
書評の効用について考える記事を新聞で読んだ。紹介しちている本についてのスタンスがよくわからない書評もあり、ものすごいおすすめなのかどうかの見きわめがつかない。だから、エッセイ的な芸のある文章で書かれたものほど人気を博すと。

読み終わった本の書評をネットで探す人は多いと思うし、私もそのひとり。なるほどとひざをうちたくなるような記事をみつけると、コメントをつけたくなる。無名のブロガーの書いた書評の方が影響あるといわれるのもわかる。でも、なぜかどうしてか読書ブログを書けない。日々の雑事や食をまぜないと本のことを書きたいと思わないのだ。ごちゃごちゃして、そのうちわけがわからなくなり終わってしまう。

最近、急逝された方が残されたブログを読んだ。もうこの世にいなくても、文字は残り、文章はサイバーネットの上で生きている。不思議な感じがした。

話がそれた。

この人が紹介しているから読むという本があるのは、やっぱり楽しい。それが有名無名に限らず。新聞の書評にも新書の本が紹介されるようになったが、何万円もする本はどれほどすばらしい書評でも自分の経済力ではムリ。でもでも、人の気持ちを動かす書評は誰もが探していると思う。本探しと同じくらいに。