自分はこの問題に決着をつけてます。 「死んだら無」なんてないという考えです。
そうではなく
「そもそも無」
が答えです。
人間の生命活動が脳の電気信号で認知されるなら人間は電気信号でしかありません。ということは電気信号が多く発生していないとそれはたんにそこに箱があるだけ。
要は無ということです。怒りも悲しみも喜びも笑いも人間の脳の電気信号である以上喜怒哀楽が示せないならそれは単なる無です。
だから死んだら無ではなくそもそも無なのです。
こんなこと感じたことありませんか?
大好きな恋人に振られたとき
大切な人との死別
そんな時、多大な悲しみの中
生きている実感を感じたことありませんか?
子供を出産したとき、大好きな人に受け入れてもらったとき
難しい試験に通った時
生きている実感をしたことありませんか?
仕事は順調で楽に生きているのに困らないお金は入ってきているのに
なぜか生きている実感がないってことありませんか?
人間は生きているようでいてそれは単なる錯覚。
生きている時もある
というのが人間の生命なのです。
水を得た魚といいますが
その水を得たときが唯一の生きたときなのです。
生き生きと活躍できるところにあなたはいますか?
そうでなければ死んでいるのと同じ。
しかしここで言いたいのは実はそんな薄っぺらい事ではないのです。
生き生きと生きることが生きた証なんてことではなく
そもそも人間は脳内の電気信号で認知しているわけですから
生き生きと生きるなんて薄っぺらい話ではなくそもそも生きていないのが人間だということです。
実は生きるも死ぬも大差ないのです。
極端なことを言えば隣に歩いている人は単なるモノでしかありません。
死んだらモノのように扱われるといいますが
違います。そもそも生きているように見えるだけで隣に歩いている人はモノでしかないのです。
だから突然あなたが殴りかかっても構わないモノなのです。
でも気を付けてください。殴りかかった瞬間にその隣で歩いていたモノは突如生きることになります。
要はモノから生きている人に変わる瞬間です。恐怖という電気信号からそして怒りという電気信号が増幅され生きることの絶頂を迎えるのです。
そしてその絶頂を抑えるためにあなたを殴りにかかるかもしれませんし
訴えるということでその絶頂を抑えようとするかもしれません。
生きるというのはそのような感情の起伏によって起きるわけです。そしてその時の選択(分岐)の癖を人格とか性格、または個性というのです。
否定する人 いますよね。
そんなわけない 生きているに決まっているだろ?
わかります でもあなたは虫を見たとき生きていると判断しますか?
もし生きていると判断するならその虫を殺すことはできますか?
虫を殺害するのと人を殺害するのとの違いは何でしょう?
実は人間は人と虫との間で命の重さの違いを判断しています。
ではそれは何の違いですか?
そう人はそこに感情があると判断しているのではないでしょうか?
しかし電気信号の増幅でしかない人間は虫に比べて使用する電力量 アンペアが違うだけでしかないのです。
虫の利用するごく少数のアンペアではなく人間には巨大なアンペアで動作している脳があります。
生きるとは何かを考えたときそれは単なる電気信号の増幅でしかないことは
実は皆気づいているということなのです。
電気信号の少ない夜。
睡眠という仮死状態に人間は陥ります。
一時的な死なわけです。
喜怒哀楽を示せない時人は死に近い状態である。
しかし生命活動に必要な最低限のアンペアで維持しているだけ。
要はアイドル状態となります。
それは睡眠ほどの仮死ではありませんがほぼ死んでいるのと変わらない状態であることは間違いないでしょう。
生きるということの命題は電気信号の増幅以外ないということのなのです。
そもそも無
そしてその話は薄っぺらい活きるという思考に結びつくことができるのです。
覚えておいてください。
あなたは生きていますか?それとも生ける屍ですか?
死ぬのって怖いですか?
安心してくださいあなたはそもそも生きてなんていません。