東京都写真美術館のTOPコレクション、今回は「見ることの重奏」というタイトルで、撮影者や批評家、鑑賞者など見る者の立場や見方で異なって見えるということがテーマなのだそうです。


最初のウジェーヌ・アジェは有名だしわかりやすい。本人はパリの街の記録として写真を撮り続け、芸術なんて全く考えていなかったのが、後のシュルレアリスムのアーティストたちに見いだされその芸術性が高く評価されました。

この写真美術館はずいぶん通ってるつもりだけど、初めて見る作家や良く知ってる作家の知らなかったシリーズがかなりあったので、それ中心にいきます。


寺田真由美という人は全く知らなかったし、こんな写真は初めて見ます。無人のシンプルな室内を撮った写真、実はミニチュアなのだそうです。

どこかで見たような場所、人がいたような気配、静謐で情報量が極端に少ないのに見る者に何かを思い出させる。まるでデンマークのヴィルヘルム・ハマースホイの絵みたいです。今回展示は8点ですが、全然足りない、もっと見たい。

チェン・ウェイという1980年中国生まれの作家は2020年の作まで展示されているので、かなり最近の収蔵品のようです。

中国のクラブの若者を捉えた写真は、孤独や空虚をジワジワと浮き出させます。

「不在」を撮ったような写真、これは2020年のコロナ禍の中国の都会の中の一場面。うーん、これは様々な見え方があります。単純に当時の記録と見るか、当時の自分になって見るか、今の自分が当時を客観的に見るか、等々の重奏。


杉浦邦恵という作家も初めて知りました。1960年代に米国に留学してA.ウォーホールなどの影響を受けてフォトグラムのような写真とシルクスクリーンなどの手法をミックスしたような手法の作品を様々制作しているそうです。

デジタルの時代には同じような画像を作るのは簡単なのだろうけど、一期一会のアナログ感はAIでも当分作れないのでは。

スコット・ハイドという作家も全然知らなかった。作品リストの紹介によるとジョン・ケージと親交がありマイルス・デイビスなどのアルバムジャケットに写真を提供していたのだとか。

二重露光のモノクロ写真に着色したような、目を見張るような派手さはないけど、どこかで見たようでその記憶を加工されているようにも感じる写真です。

最後は奈良原一高。いやもう初期からヨーロッパなどで撮った写真まで多数見てるし、次行こうと思ったら、なんだこれは。

マルセル・デュシャンの《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称「大ガラス」)を撮ったというシリーズ。
奈良原一高が他人の有名なアート作品を撮影? と思ったら本人何度も拒否したけど大人の事情で撮ったのだとか。

ただのガラスだと考えて撮ったと本人が言っていたそうですが、そこはやっぱり作家の視点がありますね。珍しく自分が反射して映っている写真や劣化してひび割れた細部など、作品の魅力を伝えるのではなく完全にケンカ売ってますね。でもそれが「大ガラス」の、美術の解説書などにない斬新な魅力を見せてくれる、これはいいですね。まさに重奏。