東京オペラシティアートギャラリーの「ガラスの器と静物画 山野アンダーソン陽子と18人の画家」の続きです。

山野アンダーソン陽子がガラス器を制作する映像の展示もあります。
そしてガラス器たち。

山野の言葉です。
「歪みって本当に美しい」
「目に見えないぐらいの歪みがあることでガラスの表面が滑りにくく」


レベッカ・トレンスというアーティストの描く木炭画はかなり奇妙。テーブルをはさんで座る12人の老若男女、テーブルには空のガラス器一つ、こちらを見て微笑む人もいれば神妙な表情でややうつむく人、何のためにこの人たちはここに集まり何をしているのか、全く見当がつかきません。超現実的なものは描かれていないのに、とてもシュールです。


小林且典というアーティストの水彩画。背景や影、光の方向などがなく、ただ器があるだけ。器という存在を描いたような絵。


石田淳一の《アトリエの陽光─山野アンダーソン陽子のガラス器と私─》は精緻な油彩画。ガラスや金属の質感、ミカンの表面の光と影、この種の絵画は「まるで写真のよう」と言われますが、写真よりリアル。


アンナ・カムネーはコロナ禍で器ができる前に描き始めたそうです。こういった「膜」をよく描くのだそうで、皮膚感覚的です。


この展覧会の最初の展示以来の、器にミルクが入った絵。田幡浩一は様々な「ずれ」を作品に導入するそうで、4点展示されていますが全てミルクの入った瓶とグラスで、グラスの部分を一度切断してずらして見せています。カンバスを全て塗らないことも含めて、絵画のリアルさとフィクション性という相反するものを提示しています。


この展覧会で唯一のコラージュ、イェンス・フェンゲの《Yoko’s Glass》。ほとんどのアーティストがガラスの透明感や質感の表現にこだわっているのに、これは全然別のことに興味があるみたいです。肘のあたりにグラスが載っていたり、何だかわからないカラフルな物があったり、かなり奇妙ですね。


小笠原美環というアーティストのの油彩画は伊庭靖子と作風が似ていますけど、伊庭の絵に感じる微かな温かさがなく、ヴィルヘルム・ハマスホイのような北欧風の冷たい静寂を感じます。どこか哲学的。


最後はクサナギシンペイというアーティストの、っておい抽象画かい!

かなり即興的に描かれていて、どんな器からこれらが描かれたのか全く想像がつきません。作者からは「向こう側を見る『窓』としての器」というリクエストがあったそうです。つまり器でなくそれを通して見える「向こう側」を描いたようです。それならわかる、即興的な描き方もモネのように一瞬の光を捉えようとしているのでしょうか。

一人の作家のガラス器からの、精緻なリアル具象画からシュールや抽象にまで広がっていく、なかなか面白い美術展でした。