人生の窮地には、必ず〝助け〟が用意されている。私は〝出口〟とも呼ぶ。
それがわかってから、私はずいぶんと怖くなくなった。
でも、条件はあるだろう。
例えば、自分は少しでも成長したい。向上したいと思っているかどうか。
柔軟な心で起こった出来事を受け入れられる素直さがあるかどうか。
恥をかいても、汗をかいても、多くを失っても、だ。
なぜなら、
親が子に教えるように、
先生が生徒に教えるように、
見えない世界から、私たちはもれなく全員助言を受けている。
ただし、勘違いしてはいけない。
親が子に教えるように、
先生が生徒に教えるように、とは
つまり、ご先祖や守護霊のような存在は人に近い。
よく考えて欲しい。親は、完璧ではない。
先生も然り。
けれど、その関係は愛によって成り立っている。
聞く気のない生徒にいくら一生懸命教えても、それが何年にもわたるとさすがに教える方も嫌になり諦めるだろう。
もしくは
親の言う通りすべて従って、自分の思う人生にならず、すべて親のせいだと責任転嫁するのはおかしいように、インスピレーションを過信して依存するのもおかしいだろう。
向上心を持って助言を聞きながら、自分で考え、自分で行動し、自分で責任をもつ。
この世界でも。見えない世界に対しても。
もし、何かがひらめいて、そのひらめいた内容が、見えない世界からの助言かどうかを確認したいなら、する方法がある。
それは、〝愛〟から来てるものどうか。
愛から来てるときは、心の内側に広がる温かい安堵感。もしくはワクワクした気持ちや優しい気持ちに満たされる。
愛なら正解だ。
愛でなければ、それは違うかも知れない。
私の背後にいたチャキチャキの着物をきた関西弁の女性は、面白い人だった。
すごく近くにいた感じだった。とても人っぽかった。
あっけらかんとしていた。
例えば、私がトイレのドアノブに手をかけたとき、何か話しかけてきた。
ので、私は頭の中で、
あの、私、これからトイレに入ろうとしてるんですケド、、、と言うと、
あの、と、言おうとした時に
いーの、いーの、こっちの世界にはそういうのあんまり関係ないから。と言われ、カラカラと笑った。
いやいや、こっちは、関係大アリですよ。汗
でも、その後も風呂で話した時もあり、つまりは、霊にとっては、こちらも魂であり、服装とか、裸とか、関係ないのかも知れないと思った。
つまりは、顔やスタイルをはじめ、見目形など所詮はこの小さい世界の価値観に過ぎない。
時代や国が違えば、美人さえ変わるのだから。
結局は、私たちは皆、見た目の価値など小さい。要はハートなのだ。
話が逸れた。
さて、その関西弁の女性の霊。ひいおばあちゃんなのか、ただの魂の縁者なのかわからないけど、言われたことがある。
私が、もっとも孤独で死にたかった頃。
東日本大震災あとの
仕事の顧客もなくなり友達も消え、携帯電話も捨てて苦しかった頃。
ひとりぼっちの家に呼び鈴を鳴らす人がいた。
ある宗教家の年配の女性である。
出来れば、あまり、関わり合いになりたくないような雰囲気を醸している団体である。
しかし、その時は藁をも縋る思いだったので、ドアを開けた。
そして、その人の話をただ、なんとなく聞いた。その声は心地よく沁みた。
また、翌週もきた。けれども、その人は自分の価値観を押し付けることなく、その宗教に勧誘するでもなく、いつも5分だけ話して帰って行った。
半年から一年くらいだったか、私も少しずつ元気を取り戻したころ、気がつけば、その人は来なくなっていた。
しかし、トラブルや自己嫌悪に陥ると、ひょっこり現れたり、スーパーで会ったりした。
続く
私は私である。
私はあなたでもある。