生前の父は携帯電話は電話とメールだけできればいい人だった。
私から送信するメールと言えば、
「残業で○○時の電車に乗るとお母さんに伝えて下さい」
「今ドラッグストアのタイムバーゲンで○○と△△が安いけど、買っとく?」
そして「例のブツが手に入ったので10円用意して待っとくように」
くらいだった。
ちなみに例のブツとは「ギザ10」だ。なぜか知らないけど、父は「ギザ10」を集めていた。

今日久しぶりに「ギザ10」が手に入ったので無意識に父の携帯にメールして…当然、宛先不明でメールは戻ってきた。
こういう何気ない小さなことの方が、父はもういないのだということを強く感じさせる。
前にも書いたが、父が危篤状態になって病院から連絡があった時、私は次の日に備えて睡眠薬を飲んでちょうど効いてきたところだった。
どうやって自室を出たのか全く記憶がない。車の中で「薬が効いてきた。眠い」を連発していたこと、病室で丸いすを並べて寝ていたら看護師さんが気をきかせて下さってソファーのようなものを持って来てくださったのでそこで寝ていたことくらいしか覚えていない。
父がいよいよ危なくなった時には起こしてもらっていて、父の手を握って心電図モニターの波形を見て、声をかけたりしてたのだけど…
このしょうがないと言えばしょうがないけど、父をきちんと看取れたのだろうかという思いが消えない。
一時期いつどうなるかわからないから睡眠導入剤だけ飲んでいて、少し持ち直してくれたからと眠剤も飲むようにしたのがいけなかったのだと思う。この後ろめたさというか悔いは、ずるずる引きずっていかざるを得ないのだろう、

転居を繰り返すうちに無くしたとばかり思っていた古いGーshockが出てきた。
23年前のものなのでベルトを通すプラスチックやゴムの部品が劣化して取れてしまい、ボロボロになっている。

これは23年前の阪神淡路大震災の後、春休みに帰省した際に神戸の中心地三宮センター街の時計屋さんで購入した。周辺の建物は倒壊し、センター街のアーケードもなくなっていたような記憶がある。
お店の方が「見ての通りあちこち被害が大きくて、買い物に来てくれる人もほとんどいない。このお店も続ける方がいいのか、たたんだ方がいいのか…」と嘆いておられた。私は、今学生で家を離れているので実際に揺れを体感していないこと、祖母を亡くしたこと、もしかしたら不謹慎かもしれないけれど、被害に遇った街の姿を目に焼きつけておきたいと思って来たことなどを話した。そして前から欲しかったGーshockを買うことにして会計をお願いしたところ、信じられないような安い値段だった。神戸のこんな状態の時にお客さんが来てくれたのが嬉しかったから、と言ってくれた。
今年の夏は天災・地震続きで、まだまだ日常生活もままならないところも多いと思う。いろんな「支援」のあり方があるのかもしれない、という思いでGーshockをかたづけた。



「人に迷惑をかけてはいけない」。
とは言え、人間誰しも他の人に迷惑をかけずに生きて行くことはできない。
私の場合は「自分が存在することじたいが周りの迷惑」だと思っているので、なるべく周りの邪魔にならないよう気をつけているつもりだ。

最近は電車の乗降マナーやエスカレーターに乗るときのマナーなどを知らないのか、電車のドアが開いても降りる人の前でつり革を握ったままで通路を開けないとか、エスカレーターの片側を開けないとか、改札を出てすぐ立ち止まるとか、ホント迷惑な人が多い。
心の中で「オマエら迷惑なんじゃ!公共交通機関を利用するときの最低限のマナーやろ!」とイラッとする。
その「イラッ」が膨れ上がったらどうなるのだろうと最近よく思う。
たまたま私の「イラッ」の満タンのトリガーを引いた人に馬乗りになってぼこぼこに殴りそうな気がする。
そういう夢も見るし…
もっとうまく「ガス抜き」しなくちゃな…

喪中ハガキを作り始める。
私には私の、母には母の喪失感がある。
私にとっては父と伯父、母にとっては配偶者と兄。
立場が違うし、どう向き合うか方法も違う。
周りからは当然「お母さんを支えてあげてね。お父さんの分も親孝行してあげなあかんよ」という言葉を投げつけられる。わからないではないが、こちらも支える余裕がない。っていうかどうすることが支えることになるの?

父が亡くなり、母とふたりの生活は想像以上に息苦しい。親子と言えども所詮他人だし、お互いのことを何でもかんでも理解できるわけではない。
子どもの頃は、父と父方の祖母からとにかく離れたかった。その一心だけで受験勉強を頑張った。就職しても、実家には戻らずひとり暮らしをしていた時期があった。
同じように今は母から離れたいと思う時がある。だが、経済的にも精神的にもやっていけないのは目に見えている。
単に逃げているだけなのだけど、そうでもしないと息が詰まる。

可愛かずみさんの魅力のひとつは、表情の豊かさだと思います。代表的なのは芸名通りの可愛らしい笑顔。生まれ持った目鼻立ちもあるのでしょうが、時に「えっ、本当に同一人物なの?」と感じさせてくれるいろいろな表情を見せてくれて、いっそう惹きつけられます。

写真集「別冊スコラ 32 可愛かずみ」の中に、目を閉じて穏やかで満ち足りた笑みを浮かべている写真があります。すごく好きな写真で、何度も何度もデッサンしようとしては挫折、の繰り返しでした。


初めて見た時に、かずみさんが大きく温かな何かにすっぽり包まれて安心しきっている感じを受けたのですが、何度描いてもその感じが出せないのです。そりゃそうですよね。私のデッサンはど素人の自己流の下手の横好きなので…
でも何とか、「守られている」ことを感じながら穏やかな気持ちでいるかずみさん、というイメージを出したくて。描いては捨て、描いては破り…20枚近く描いて、何とかこんな感じかな?と思えるものができました。

衣装が柄物だったのも時間がかかった要因ですが…
かずみさんへの思いは伝わるでしょうか?

仕事から帰宅しても母と二人きりの生活で、常に気持ちが防御態勢に入っていて気が休まらない。爪噛み・抜毛も進む。

 

妹夫婦の家は歩きでも20分くらいと近いので、車の免許を持っていない私たちのために買い物やら親戚の家に行くときやらよく動いてくれる。可愛い5歳の甥っ子もいる。

たまに晩ご飯や休みの日の昼ご飯を我が家で食べることがあって、甥っ子を中心にわいわい言いながら食べている。動いてもらったお礼や、少しでも妹に楽をさせてあげたいと母が誘っているから。

 

余裕があれば甥っ子と普通に遊んだりできるんだけど、ない時は「お願い、3分でいいから黙っててくれる?」などとひどいことを言ってしまう。言われた甥っ子も嫌だろうけど、そういう対応しかできない自分も本当に嫌になる。

私は私なりに疲弊して帰宅して、一緒にいても落ち着かない母と対峙することを思ってうんざりしてしまってて、妹夫婦の車が止まっているのを見ると石を詰め込まれたような気分になる。気持ちがささくれ立って、ああ、消えたいなぁとまた思う。

あっという間に10月も終わろうとしている。
毎年この時期になると、東遊園地で行われる「1.17のつどい」に出るために会場近辺のビジネスホテルを予約するのが常だった。大腿骨骨頭壊死で杖なしでは歩けない父に「どこらへん予約する?」と聞き、地図や料金を見比べていたものだ。

東日本大震災の報道を見て髪が抜け落ち、辛うじて生えてきた眉毛も睫毛も白い毛が多かった。
そんな父が、当日朝4時からボランティアとして杖をつきながらも竹灯籠にろうそくを浮かべて回っていたので、取材してくださる新聞社もいくつかあった。

今、私の手元に父のボランティアの名札がある。
来年は私がそれを持参して竹灯籠にろうそくを浮かべて、その名札を返却させてもらって帰ろうと思う。

ええやろ、それで。
高名なフランス語学者の妻だった祖母を殺害し、自らも経堂ビルから投身自殺した朝倉泉くん。
「ぼくは12歳」を書いた岡真史くん。
沖雅也さん、岡田有希子さん、可愛かずみさん。
投身自殺というある程度確実に死ねる方法で亡くなられた人たちだ。
引き返すことなど考えていなかったのだろう。
思いとどまることもなかったのだろう。
フェンスか壁か、そこから下を覗いただろうか。
決心が揺らがないよう、あえて見なかったのだろうか。

最期に目にしたものは何だったのだろう。

大切な彼を投身自殺で失ってから、考えようとしなくても頭に思い浮かんでくることだ。
時間も亡くなった人も帰ってこないのに。

「可愛かずみ」という役者さんがいた。
名前と顔は知っている。あとは、にっかつロマンポルノでデビューしたこと、21年前に自ら生涯を閉じたこと。

若一光司さんの「自殺者ー現代日本の118人」という本がある。感傷的になりすぎず、突き放さず、というスタンスで自ら命を絶った人たちのことを書き留めてある。
何度も再読しているが、急に可愛かずみさんのところで手が止まってしまった…何か気になる。
この春くらいのことだったろうか。

幸い、インターネットのおかげで情報は早く入手できた。当然だが、知らないことの方が多かった。
ヌードを含むグラビアアイドルとして一世を風靡したこと。バラエティ番組への出演や歌番組の司会をしていたこと。アイドル歌手としても活動していたこと。
どうしても「役者」になりたいと決意し、そのための努力を怠らなかったこと。ファンになった。

でも「ポルノ女優」というレッテルを貼られることがあり、彼女の心に影を落としてゆく。少しずつ、向精神薬が手放せなくなっていった。それでも、役者以外の仕事はしなかった。それは、彼女の20代半ばから後半の頃のことである。
口が乾く、表情が強張ることがある、忘れっぽくなる。
こういった副作用にも苦しめられたと思う。特に役者という職業にはつらい副作用だったはずだ。それでも、薬を服用しながらでも演じることを止めなかったし、休業もしなかった。
過換気症候群も併発し、1度に10数種類の薬を飲まないといけない過酷な状態でも、ギブアップしなかった姿勢に心を打たれた。

交際が順調で、結婚間近かと思われた方とは別れざるを得なかった。そのことが彼女にどれほどのダメージを与えたのか、想像して思いを馳せるしかない。

精神状態が悪化し、さらには母親のように慕っていた事務所の社長の奥様が急死するという不幸も重なった。
3度目の自殺未遂の後、以前交際していた方が住むマンションから身を投げてしまった。

自殺の「理由」は誰にもわからない。彼女が自殺したことを美化するつもりもない。

ただ、彼女が薬の力を借りてでも役者であろうと努力し続けたことには尊敬の気持ちを持っている。
これと自分が決めたこと。今は正直ないけれど、それに向かう時に、彼女のように一生懸命になれるだろうか。
少しでも近づけるだろうか。