2歳の時に家の2階から落ちたけれど命に別状なし。
33歳の時に単車に乗っていてトラックと接触し、頭を打って額が割れ、「奇跡的に命は取り留めましたが後遺症が残るでしょう」と宣告されたけれど全く残らず。(私が小学校1年生の頃のことで記憶があやふやですが…)
盲腸が癒着して腹膜炎を併発しかけていたのだけれどこじれる寸前で治癒。
肝炎・肝硬変・ポリープの結紮、1度めの間質性肺炎のことも含め、父は強運の持ち主だったと思う。
周りは治療の難しさを見て大変な思いをしていたけど、当の本人はそんなことは全く気にかけず、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」といった風だった。喉元を過ぎていたのかさえ怪しいものである。
だから摂生しなければいけないことができなかった。
喫煙も飲酒も、結局止められなかった。
そんな父自身の入院中の姿を妹は写真や動画に撮っていた。どんな様子だったのか、もし退院できたらこれを見せる。
それでも今までの生活と変わりがなければ、もう父とは関わらないとまで言い切った。

その父はステロイドパルス療法を2回行っても効果がなく、鎮静剤で大人しく眠らせてもらったりしていたが、
ほんの少しだけ効き目が現れてきたらしく、急遽3回目のステロイドパルス療法を行うことが決まった。

「やっぱりこの人の運は半端なく強いわ」

家族全員、そう思った。その思いは叶わなかったけど…





昨年、まだ父が入院していた時のことをよく思い出す。
初めて間質性肺炎でICUに入った時にはステロイドパルス療法で奇跡的に治った。
今回は間質性肺炎をこじらせ過ぎていて、間を開けて2度行ったが、まったく効果が見られない状態だった。
自分の肺では必要な酸素を取り込むことができず、本人への負担が少ない人工呼吸器を装着してもらっていた。
出勤前や定時に退勤できた時は顔を見に行くようにしていたが、もうこの病院から生きて出ることはないんだなと思うと震えが止まらなくなった。

でもいちばん怖くてたまらなかったのは、帰宅後に父の持ち物…定期入れや鞄やケータイなど…つい最近まで使っていたような物を見て、これらの持ち主が帰って来てまた使うということはないのだ、持ち主不在になるんだと思った時だった。
退勤後、神戸ルミナリエを見に行く。
阪神・淡路大震災発生による犠牲者の鎮魂と追悼、街の復興と観光客を呼び戻そうと開催されている。


関西を離れていたので直接揺れを感じてはいない。
でも、震災で祖母を亡くした遺族ではある。
実際に揺れを体験し、大変な思いをなさった方たちはたくさんいらっしゃるので、後ろめたくて「被災者です」とは言えないのだけれど…

我が家では父がいちばんの被災者だった。
瓦礫と化した生家。中から聞こえる妹と両親の声。
妹と父親は助けられたが、母親を助けようとした時に瓦礫に火がついてしまった…
手伝おうとしてくれた人たちを巻き込むわけにはいかない。

「離れて下さい」

そう言うしかなかった。
その胸の内にどれだけ思いを馳せても、理解することはできない。

その父も、今年の1月17日から18日に変わる直前に亡くなった。祖母が迎えに来たのだと、最期を看取った家族はみんな思っている。



最近、精神的な不調の波が大きくなったり小さくなったり…のサイクルが1日の中でもころころ変わる。
30分前まで何も気にならなかったのに、急に自分の不甲斐なさばかりが頭に浮かんできて涙が出そうになる。
今の職場には、精神疾患があることを伝えていないので余計に混乱する。
また1日が始まる。
心の中に鉛玉を入れられたような重い身体を引きずり、職場に向かっている。涙が止まらない。
しんどい。

定期的に通っている精神科のカウンセリング。
と言っても普通のカウンセリングではなく(?)、カウンセラーと少し離れたソファーに仰向けに寝て、思い浮かんだことを言葉に出していくというもの。
本当はあまり好きな時間ではないのだけど…

「私」は何をもって「私」なのだろう?

肉体ではなく、精神だったり考え方だったりするんじゃないかと思っている。このままの身体で、中身が別の記憶を持ったとしたらもうそれは私ではないと思う。
だとすれば、記憶を消してしまえばいいのだ。
もっともそれは容易なことではない。
お願いします。誰か、私を消して下さい。肉体ごとでもいい、記憶だけでもいい。自分では消せないんだよ、エラソーなこと言いながら臆病だから。

久々に可愛かずみさんのデッサン(?)を描きました。
全身を描こうかなと思っていたのですが…
きれいな卵形の輪郭、笑顔になった時の三日月型の目と八重歯がかずみさんのチャームポイントなので、そちらに重点を置いてみました。
「可愛」という芸名は本当によく合っていますよね。


私は大学を卒業してすぐに就職できたわけではなかった。そして、大切なひとを飛び降り自殺という形で失い、自らもうつ病をはじめ摂食障害・自傷などの精神疾患にかかってしまったため就職しても長続きさせることができなかった。
その間、経済的な支援は父がしてくれていた。
ここ数年は正社員として継続的に働けていたので、年2回賞与が出た。父が支援してくれた額に比べれば微々たる額だけれど、毎月の給料からと賞与から少しずつ返済していた。

昨年も冬の賞与が出た日にお金を引き出し、帰宅して父に渡した。毎月返済しているし賞与からも返済しているのに、その時はなぜか母に向かって封筒を見せながら「お母さん、ねえちゃんがボーナス出たからってこんなに入れてくれとるわ」と言った。
えっ?と驚き、おかしなこと言うなあ、今回が初めてとちゃうのにな…という違和感があった。
変な咳が続いていた時期で肩で息をしているような状態だったので、間質性肺炎が再発し、体に必要な酸素が回っていないのかもしれないと思った。

その夜も夜中まで咳をしていた。
翌日はもはや体力の限界で起きられず、たまたま休みだった妹夫婦が呼吸器内科に連れて行ってくれた。
間質性肺炎をこじらせてしまっていて、「何でここまで放っていたんですか!」と言われ、基幹病院に救急搬送された。
そのまま入院となったため、父が生きて家を出たのはこの日が最後になった。

ちょうど去年の12月8日のことである。

                              

今日は仕事が休みだったので、眼科の主治医の診察日にあたっていることを確認した上で重い足を引きずり眼科を受診。

緑内障手術をした左眼だけでなく、右目の視野まで欠けてきているということで8月に紹介状を書いていただき、大学病院へ行くよう言われて以来だ。

大学病院からの返信を読みながら、「向精神薬の影響の可能性かも、ですか…薬は減らせそうなんですかね?」と主治医。

「一応精神科の先生には話していて、薬を減らしていく方向で…すぐにはムリなんですが」…(後半は嘘です。睡眠導入剤を増やしてもらってます)

「まぁ、視力と眼圧は落ち着いていますから数ヶ月後にもう一度視野検査をしましょう。点眼薬処方しておきますね」

「あ、はい。お願いします」

 

視野検査の予約をし、会計をして、領収書と処方箋を受け取る。

会計の方が笑顔で「4日以内に薬局にお持ち下さいね」。

「わかりました。ありがとうございました」

 

領収書をかばんに放り込み、処方箋はバスの中で細くちぎって駅のゴミ箱へ。

私の身体なんて、こんなもん。別に何てことない。

 

去年のこの頃、父はおかしな咳をする・肩で浅く息をするだけでなく軽いチアノーゼのような状態になっていることがあった。

20年ほど前に間質性肺炎にかかった時も、母がチアノーゼのような状態になっているのを見つけて近くの呼吸器内科を受診した。当時父は53歳。重篤だったらしいが、「まだ50代、このまま亡くなるのは若すぎる」と主治医が県の基幹病院に頼み込み、救急車に同乗してまで命を助けて下さった。
入れてもらったICUでは身体の負担になるからと、鎮静剤で意識レベルを下げた状態で眠っていた。
東京で働いていた私は急遽休みをいただき、ICU前の待合室前で寝泊まりしていた。

それなのに、と言うべきか、やはり、と言うべきか、禁酒も禁煙もできなかった。喉元過ぎれば何とやら、である。さすがに私に似ている(反対か?)

去年の12月7日は木曜日だった。この辺りは木曜休診の病院が多いが、いくつか診療している呼吸器内科があった。家の近くでも会社の近くでも乗換駅の近くでもいいからとにかく行くようにと出がけに母が声をかけた。
父は何も答えない。
いつもならそれ以上は言わない母もさすがに言った。「返事してくれんとわからんやろ!」
父は…どうしたのだったろうか。こういう肝心なところで、記憶が飛んでいる。

それが父の最後の出勤となった。