昨日は通院日。
落ち着かないのでコンビニスイーツを食べ歩き、診察代として持っていたお金が足りなくなって結局下ろしに行く。
夜はネットショッピングで、買わなくても支障のないものを買ってしまう。13,000円。この数日でも15,000円くらい使ってしまっている。

必要かどうか考えても、すぐに買いたい気持ちが大きくなり止められなくなる。
意志が弱いのかな…
自動販売機でコーヒーを買ったお釣りにギザ10が混ざっていた。

生前、父はなぜかギザ10を集めていた。
ギザ10が手元に来たら、「例のブツが手に入ったから10円を用意して待っているように」と父にメールするのが常だった。
何も考えずメールを送信したら、「該当するメールアドレスはありません」という内容のメッセージが返ってきた。
そりゃそうだ…とは言え、長年の習慣だったのでなかなか切り替わらない。
無事に阪神・淡路大震災のつどいへの参加が終了。
大腿骨骨頭壊死の足を引きずりながら、震災で亡くなった母親(私の祖母)の供養になれば、と参加していた父がが亡くなり、1年が経過した。
「もう心配せんでええよ、おばあちゃんのところでゆっくり休みな」と伝えたくて、今年は一人で参加した。

そのつどいが終わり、もうこれで父にしてあげられることがなくなってしまった。
どうしてもやらなくてはいけないことも、恐らくもうないはずだ。

消えたい。

摂食障害(過食症)になってから顕著なのだけど、金銭管理ができなくて困っている。

食べ物に下剤、脂肪や炭水化物をカットしてくれるサプリメント。

お給料の中で買えるうちはまだよかった。転職を繰り返し、給料が減ると下剤やサプリメントが買えなくなった。

体重は一気に増え、持っているサイズで対応できないパンツやトップスを買い直す羽目になる。

 

一度「欲しい」と思ったものを我慢することができない。普段あまり衝動買いしない方だけど、「これ」と思い込んだものには何も考えずお金を使ってしまう。

昨年ファンになった可愛かずみさん。それから8か月くらいの間に掲載されている雑誌や超プレミアのついている写真集、CDなどに数十万を使っている。自分でも呆然とするが、止められない…

1月18日。今日は父の命日だ。

夜中に亡くなり、葬儀会社の方に迎えに来ていただき、家の前でしばらく停車していただいて…
入院してからずっと帰りたがっていた家とお別れ。
我が儘で、母も妹も私もそれなりに大変な思いをしたけれど…

さみしがり屋で、人が周りにいてワイワイやるのが好きで、あれだけ「次飲んだらもうだめだ」と言われていたのに禁酒できなかった。肝炎、肝硬変…肝臓はボロボロだった。

20年近く前に1度間質性肺炎にかかり、禁煙しないとダメだったのに禁煙できなかった。健康診断で指摘されていたのに、呼吸器内科を受診することもしなかった。
その弱さが歯がゆくもあり、共感してしまうところでもあり…

昨年の11月末から続いていたおかしな咳。母も私も何度も受診するように言ったが、行かなかった。
自分の娘より年下の、創業者の孫が社長に就任していた。毎日不平や不満をこぼしていた。今までの行動パターンからして、ある日突然辞表を出してきてもおかしくないな…と母も妹も私も感じていた。
それでもあの時、仕事に対する責任感を発揮したのはどういうわけだったのだろう。当たり前だと言えば当たり前だが、それすらできない人間だったのに。
当然間質性肺炎をこじらせてしまい、以前お世話になった呼吸器内科に行ったもののそこではどうにもできないと言われ、大きい病院の呼吸器内科に救急搬送された。
きっと本人はしばらく治療したら退院できると思っていたと思う。その点は無念だっただろう。

もう1年、まだ1年。
まだ父との対話は始まったばかりだ。


今年もこの日がめぐってきた。
1月17日、阪神・淡路大震災が発生した日。


24年前のあの日。
進学で家を離れていた私はテレビの前で茫然としていた。信じられない光景、信じたくない光景。
「おばあちゃんが助からなかった」という連絡が入ったのが14時過ぎだった。
修学旅行で家を離れていた妹から電話がかかってきて、祖母の訃報を伝えたのは何時頃だっただろう。

父が生まれ育ち、祖父母と叔母が暮らしていた神戸市長田区の家は瓦礫と化していた。それでも、中で3人は生きていて声が聞こえていたそうだ。
叔母を助けてもらい、通りがかった人たちに祖父を助けてもらい、次は祖母という時に…瓦礫に火がついてしまった。他人を巻き込むわけにはいかないと、父は声を絞り出した。

「離れてください」

それからすぐに家は炎に包まれた。

翌日見つかった祖母は、ティッシュペーパーの箱に半分くらいの量の骨の欠片になるまで焼けてしまっていた。

父は15回めの1.17のつどいから参加し始め、翌年以降は泊まりがけでボランティアとして朝の4時に東遊園地へ行くようになった。
私は20回めのつどいの黙祷時間前に東遊園地へ行き、黙祷を終えてから出勤するようになっていた。

昨年、1月17日から18日に日付が変わる直前に父は亡くなった。祖母が迎えにきたのだと思った。

一昨年父と泊まったホテルに宿泊し、4時前に東遊園地に到着した。
例年は4時からろうそくを浮かべるそうだが、今年は前日に浮かべてくださったとのこと。今朝は水が漏れてしまっている竹がないか、浮かべ忘れているものがないかを点検していった。

はじめは「ここ、水がないです」と報告していたが、いちいち来ていただくのが申し訳なくなってきて、台車をお借りして水をいれたバケツとじょうろを積み、水を足していった。竹灯籠代わりに置かれるようになったペットボトルの水が少なく、中に浮かんだろうそくに点火できないかもしれないと、できる限り水を注いでいった。


5時から点火用のろうそくで竹灯籠のろうそくに点火していく。自分の母親を飲み込んだ炎と重なったのではないかと、父のことを思いながら…


やがて、黙祷の時間が近づいてきた。
会場に流れる時報が5時46分を告げる。

あの場にいらっしゃった人たちの胸に去来するものは人それぞれ…

時間が解決してくれることがある。
時間が経っても解決しないことがある。
がんばれない時は、がんばらなくていい。
前を向けないときは、前を向かなくていい。
大切なのはあなたのペース。
できる時が来たら、繋いでいきましょう。
繋がっていきましょう。


全国で続発する災害の犠牲になられた方々のご冥福をお祈り致します。
被災された方々が少しでも早く心穏やかに生活できる日が来ることを願っています。


明日は仕事を終えたら、家へは帰らず直接神戸の東遊園地近くのビジネスホテルへ行く。一泊して、竹灯籠のろうそくに灯をともすお手伝いをさせていただく予定だ。

初めて父が1.17のつどいに参加したのが15回目だったそうだ。毎年前日からカプセルホテルやビジネスホテルに泊まり、ボランティア登録して灯をともしていた。
私はまだその時は始発バスに乗り、7時過ぎに東遊園地に寄ってから出勤していた。
そして20年の節目に、父と一緒に行くようになった。
大腿骨骨頭壊死を患っている父のことを考え、なるべく東遊園地から近いところのビジネスホテルの予約をしていた。
昨年もそろそろ宿を押さえなあかんなあ、と言っていた矢先に父は倒れ、40日の闘病の末亡くなった。今年は私が一人で行く。そして父が持っているボランティアの名札とろうそくを、ひとまず返すつもりだ。

防寒用の服やら下着やらを準備していたらけっこうな荷物の量になった。遅い反抗期に場違いな家出をするような気分だ。

ひとまず昨日、父の一周忌と祖母の二十五回忌法要を終えた。

法要に持って行くために父と祖母の位牌を仏壇から取り出し、軽く拭いた。我が家の仏壇は、阪神・淡路大震災で亡くなった祖母の供養のために買ったものだ。たかだか23年くらいで父の位牌も置くなんて思いもしなかった。

菩提寺の本堂でふたりの位牌が並べられているのを見て、ああ、父はもうあっちに行ってしまったんだなあという思いを強くした。こっちで何となくふらふらして、幻覚や幻聴という形で私が感じられる世界からは離れて行ったのかなあ…と感じた。

たぶんそれは父が弱っていくのを見ていて、もうこの人は家に帰れないんだと感じた時とは少し違う。
あの時はどこかで奇跡が起こるんじゃないかという希望を持っていた。というか持っていたかった。
でも今回は違う、父の俗名と戒名を書いた位牌が仏壇にあるだけで、魂はもうこの辺りにはいないんだという感じだった。

まだそんなに遠くに行かないでよ。
あさっての「1.17のつどい」、一緒に行くんだから。




父の一周忌法要を明日に控え、特に今月に入ってから精神的に調子が良くない。

通勤・退勤時にコンビニスイーツを買って食べまくる。

当時のメモや写真を見返し、泣いてばかりいる。

父への感情の波が大きく振れ過ぎて、自分でコントロールできなくなる。必要以上に美化してみたり、必要以上に憎んでみたり。

しばらく見なかった幻覚を見たり、しばらく聞かなかった幻聴を聞いてみたり…

幻覚を見ているときは、母は「あんたずっとお父さんのことが嫌いや、いややって言ってたのに何で急にお父さんのことをええように言うん?」と苛立たしそうに問いかけて来る。

もうそのまま、いろいろなことを理解できない人間として生きていく方が楽なんじゃないかと思うこともある。

まだ1年、もう1年。早いような、そうでもないような。

 

昨年の1月17日、主治医の先生から「相当厳しい状態です」と言われた父。私も気になって仕方なかったが、風邪気味だったので仕事帰りに病室(呼吸器内科病棟だったので)には寄らなかった。

一昨年の12月に父が入院した時、いつ呼ばれてもいいように寝る前にと入眠剤だけ飲み、眠りを持続させる薬は飲まなかった。当然、毎日の睡眠時間は長くて2時間。
仕事もしないといけないので、これでは身体がもたないと思い、年明けから眠りを持続させる薬を飲み始めた。
これが致命的な判断ミスだった。

17日の夜に「父が危ない」と連絡をもらった時、私の脳内では眠りを持続させる薬がものすごく効いていた。
どうやって着替えたのか、靴を履いたのか、義弟の車に乗ったのか全く記憶がない。
病院のエレベーターで「クスリが効いてて眠い」とうわ言のように繰り返したのは覚えているけど…
父の病室の丸いすを3つ並べ、すぐに眠ってしまった。
途中で看護師さんがソファーを持ってきてくださり、父のベッドの右側につけてもらい、そこでもさらに眠っていて叔母(父の妹)夫婦が来たのも知らなかった。 

いよいよ父が危なくなり、起こしてもらった。
完全に目か覚めていたわけではなかったが、状況は理解できた。ボンヤリした頭でも、モニターの心拍数、血圧、酸素濃度、呼吸数が少しずつ減っていくのがわかった。
必死で声をかけ、身体をさすり…しかし何の反応もしなくなって、全ての線がフラットになった。
17日の23時58分くらいのことだった。

何かの間違いだ。そう思いたかった。
お父さん、いつもの運は?こんな状態、今までもあったやん。それでも何とか命拾いしてきたやん…
おばあちゃん。まだ迎えに来んといてって言ったやん?

でも、それが現実だった。
看護師さんが主治医の先生を呼んでくれて、死亡確認をして下さったのが18日の0時1分。だから書類上は18日が命日になるが、家族はやはり17日だと思っている。

14日に父の一周忌、祖母の25周忌の法要だ。