先日、学生時代の友人が学会で近くに来るというので、
待ち合わせて晩ごはんを一緒に食べた。彼の結婚式以来の8年ぶりの再会だ。
私が父を亡くしたことを喪中ハガキで知っていたけど、連絡しそびれて…と言ってくれた。
彼も私が精神科に通っていることを知っている。だから、父を亡くしたことが健康な人よりダメージが大きいんじゃないかと言ってくれた。
話すつもりはなかったのに、父が危篤の時に睡眠薬が効いていて記憶が欠落していること、本当の最期しか見られなかったことを自然と話してしまっていた。せめて睡眠導入剤だけにしておけばよかった…とずっと悔やんでいる、と。
彼はそれを聞いて、「でも、最期は見れたんだろ?」と言った。
「俺のおふくろもね、心を病んでてね、通院させてたんだよ。この話はしたことあるよね?」
「うん」
「当時は俺とおふくろとふたり暮らしだったんだけどさ、ある日家に帰ったらおふくろが倒れてて、冷たくなってたんだ。慌てて救急車呼んだけどダメで、薬の飲み過ぎなのかアルコールが入ったのか全くわからなかった。俺は当時マラソンにハマってて、その日もトレーニングしてから帰ったんだ。トレーニングに行かずに直帰してたら助かったんじゃないかとか、いろいろ考えたよ。きつかったなあ…」
私にはかける言葉がなかった。
「父の最期をちゃんと見られなかった」ことは、やはり後悔や後ろめたさを伴うことなのだけれど、見られただけ幸せだったのだろうか…
