可愛かずみさんのデッサンらしきものを描き始めて数ヶ月。たいていグラビアの中で気に入ったものを題材にしています。白黒コピーした原稿と画用紙に鉛筆で縮尺を合わせた方眼を描き、マスにかかる線を結ぶ…デッサンというより何かの作業のような感じです。
そしていつも思うことがあります。
抜群のプロポーション、芸名通り可愛らしい顔立ちはもちろん、かずみさんのおへそが本当にきれいなんです。
羨ましくてため息が出ます(笑)


2月がやってきた。私の誕生月である。

お祝いの言葉をもらって嬉しかったのはいつだっただろう。
ひとつ歳を取るということは、消えたい、死にたいと言いつつそれを実行できないまま来てしまったことを再認識することなのだ。

もういいよ…

2年前の1月18日、0時1分。
父が息を引き取った。間質性肺炎をこじらせて入院してから約40日後のことだった。

父は阪神・淡路大震災で母親と生まれ育った家を失った。瓦礫の中で母親が生きているのがわかっていたが、家に火がついてしまい、助けに行こうとして下さった通りがかりの方を巻き込めないと「離れて下さい!」と声を絞り出したという。
毎日仏壇に手を合わせ、母親の冥福を祈っていた。

東日本大震災の映像を見て、父の髪はすべて抜けた。
眉毛も睫毛も抜けていった。父の心の傷の大きさを目の当たりにしたが、何もしてあげられなかった。

神戸市の東遊園地で毎年行われる「1.17のつどい」に
ボランティア登録をして、朝の4時から竹筒にろうそくを浮かべ、火をつけて回っていた。
ろうそくの炎と母親を飲み込んだ炎が重なることもあるが、いちばん母親に近づける時間だと言っていた。
20回目のつどいからはビジネスホテルを予約して父と泊まり込み、私も父と同じように火をつけて回った。

2年前。
父の容態が目に見えて悪くなってきたのが1月10日を過ぎた頃からだった。
「17日におばあちゃんが迎えに来んかったらええんやけど…」と私たち家族は思った。
しかし、危篤に陥り、モニターの波形がまっすぐになったのは1月17日の23時58分ごろだった。
最終的に主治医が死亡を確認し、診断書に記載して下さったのは1月18日だが、私たちは父は17日には母親のもとに向かったのだと思っている。

1995年1月17日。
電話の音で目が覚めた。時計を見ると、朝の6時。
母の親友からで、「今神戸で大きな地震があった。家は大丈夫やけど、お父さんの実家と連絡が取られへんからお父さんもお母さんもそっちに向かってるから」という内容だった。
神戸で地震?
とにかくテレビをつけた。

これが神戸…

冬休みに帰省したところだ。それから半月ほどしか経っていないのに…

慣れ親しんだ建物が崩れ、燃えている。
こちらからの電話はもちろん繋がらない。
食べ物も飲み物も喉を通らなかった。

14時過ぎにようやく母から電話があった。
「落ち着いて聞いてな。おばあちゃん、あかんかってん…家に火がついてもて…」

正月に会ったのに。昨日電話で話したのに。
おばあちゃん…

夕方か、夜か…
修学旅行に行っている妹から電話があった。
家にも覚えている親戚にも電話が繋がらない。何とかお姉ちゃんの電話番号を思い出したのだと、既に半泣きの状態だった。祖母の死は私が伝えた。
妹は高校の修学旅行の思い出の中に震災のこと、祖母のことがついて回ってしまうんだなあ…とかわいそうになった。

まだ遺体を連れて帰ってこれていない。
お葬式の準備ができるまでは、帰ってこなくていい。
母はそう話した。
私は講義に出て、教授に理由を話して急遽休むかもしれないことをお伝えして回った。

祖母のお葬式の準備ができたということで帰宅する。
東方向から帰るのだが、大阪以西の交通網は寸断されていてどうにもならなかった。
空港で西回りで兵庫県に帰るのにいちばん適した便を聞くと、広島空港だと教えてくださった。
広島駅で新幹線に乗り、姫路で在来線に乗り換えて最寄り駅に着いた。
震災の第一報を入れてくれた母の親友が迎えにきてくれていて、自宅まで送ってくれた。
その時、被害が少なかった母方の親戚宅に身を寄せていた両親とおば、祖父が車で帰ってきた。後部場席にいた 祖父が私にティッシュペーパーの空き箱を差し出しながら、「絶対に落としたらあかんで!おばあちゃんの骨や!」とそれまで聞いたことのない強い口調で言った。
中には、軽石のような一握りの骨だけが入っていた。
火が強かったのか、温度が高かったのか…
こんなになるまで焼けてしまったのかと、ただただ悲しく涙が止まらなかった。

お葬式を終え、進学先に戻る前日に祖父母宅の焼け跡に行った。拾いきれていなかった小さな祖母の骨を拾い集めた。
周りの家も焼け落ち、全く別のところに来たかのような光景になっていた。この光景は一生忘れてはいけないのだと思った。
外国人の記者がおばに話を聞いている声がした。振り向くと、湯飲みに拾い集めた祖母の骨を見せながら「It's my mother's bone」と説明していた。それを聞いた記者は絶句し、それでも日本式に手を合わせてくれた。
It's my mother's bone.
40数年一緒に暮らした母親と生まれ育った家を1度に亡くしたおばが気丈に答えていた姿も、一生忘れないだろう。
25年前の正月。
進学先から冬休みで実家に帰っていた。
1月1日は例年通り、父方の祖父母と叔母が来て食事をした、珍しく私が髪を伸ばして後ろでくくっているのを見ていた祖母が「珍しいねえ。もう少し(の間)伸ばしたら?」と言い、私は「あ…うん」と適当に返事をした。そしてすぐに年賀状の仕訳のアルバイトに出かけた。
自分の意志で髪を伸ばしたのは、その時が初めてだった。本当は「女の子らしい」格好をして欲しかった祖母は嬉しかったのだろう。

進学先に戻ってしばらく経った16日。祖母から電話があった。
ちょうど妹が修学旅行に行くのでお小遣いを渡したことや、正月にもう少し話をしたかった…というような話をしてくれた。また絵はがきでも送るね、と返事をして電話を切った。

それが、祖母と最後に交わした会話になった。

「きっとワルツが踊れるわ」。
可愛かずみさんの歌の中で、私が一番好きな歌です。
思いがけない幸せを手にして、嬉し涙を流す女性。
「素顔のまま逢いたいと思うなんて変かな…」という気持ちを持ちながら、でもやっぱり「あなた」とめぐり逢えた嬉しさがこみ上げてきます。
作詞は森雪之丞さん。
女性が感じている嬉しさだけではなく、まだ信じられない気持ちや照れや恥ずかしさみたいな思い。そんな感情を、涙に託しているところが大好きなんです。

「馬鹿よね 涙の奴 うれしくても落ちる」

今まで、嬉し涙を流す経験が少なかったのかもしれません。だから、この部分は女性の感情ではなく涙に焦点を当てたんじゃないかと思います。
そして、かずみさんが若干舌足らずな感じで歌っているところもいいなあと思いながら聴いています。

アクトレスDXに掲載されていたかずみさんのグラビアの写真に、私の頭の中で「きっとワルツが踊れるわ」の女性に重なる表情、雰囲気を持ったものがありました。
手で隠れているけれど、きっと嬉しそうな顔をしているんじゃないかな…と思わせてくれる1枚です。


先日は左眼の緑内障の定期検査だった。
予約していても、視力や眼圧を測って待っていなくてはならない。
その待ち時間に、60歳くらいの女性が話しかけてきた。
「奥さんはどこが悪いの?」から始まり、症状のこと、(勝手に奥さんだと決めつけているので)家庭のことなど話をした。
そうこうしているうちに私の順番が来て、別れることができた。

診察が終わり、会計を済ませた。
かなり前から眼圧の上昇を抑える点眼薬の使用を放棄している私は、処方箋をゴミ箱に捨てた。
それをたまたま見ていたのが待ち時間に話しかけてきた女性。
「何で処方箋を捨てるの!大事な眼でしょ!何かあったらご主人やお子さんはどうするの!」
…人を勝手に所帯持ちにした上に説教ですか…
「家にまだ薬が残ってたのを思い出しただけです」と言うと、「そうなの?それならいいけど、体は大事にしないとダメよ」と言って去って行った。
っていうか、私の眼に何かあってもあなたに迷惑はかけませんけど。


年が明けて5日が経った。
新年になる時、年度が変わる時、いつも自分一人が置いていかれるような気持ちになる。
周りとの差はどんどん開き…
自殺に見えない自殺の方法を考えている私。

父の三回忌と、母方の祖母の一周忌の年になる。
どちらもまだ実感はない。

今年は阪神・淡路大震災の1.17のつどいに行けるかどうかもわからない。
25年前に失った祖母のことを、2年前に祖母の命日とほぼ同じ1月18日に亡くなった父のことを、まだフラットな目で見ることはできない。情けないけど。
でも、悼む気持ちはある。
私自身はあの揺れを経験していないから、被災者とは言えないと思う。でも被災者の遺族ではあるのだ…


今までずっと、12月30日は母方の親戚宅で餅つきをする日だった。
祖母は5月頃にヨモギ餅用にヨモギをつんできていた。
その頃のヨモギが色がきれいについて、香りがいいからと教えてくれた。つんだヨモギは茹でて12月まで冷凍しておくのだった。
前日餅米を洗って吸水させておく。
庭にハガマをつくり、せいろで餅米を蒸していく。上下段を入れ換えながら蒸し、木の臼に餅米を移す。それを叔父たちが臼の周りを回るように動きながら杵で押すようにして餅米が固まりにまでこねる。
そこから、杵でついていくのだ。
途中で合いの手と言うのか?水をつけた手で餅を返していくのが長年祖母の役目だった。
私たち子どもは、小さい時はおじに後ろから杵を支えてもらってつく真似をさせてもらった。大きくなり、一人で杵を持ってつけるようになると何とも言えない誇らしげな気持ちになったものだ。
つき上がったお餅を、餅粉をふった板の上まで持って来てくれるのもまた祖母だった。
ちぎってせっせと丸めながらも、きな粉やおろし醤油につけてつまみ食いするのもご愛敬。
白い餅・あんころ餅・ヨモギ餅・ヨモギあんころ餅、鏡餅用の大きめの餅。それぞれが餅粉をふった大きなタッパーに必要な分のお餅を持ち帰る。
それが毎年12月30日の過ごし方だった。
さすがに祖母が80歳を過ぎた頃には、合いの手も餅を持って来てくれるのもおじや私の母に代わっていた。
けれどこの日は祖母がいてくれることのありがたさを改めて感じる日でもあった。
おじのうち一人は天に還り、祖母も還った。
来年以降に餅つきをするかはまだ未定だという。
祖母が暮らしたおじの家の冷凍庫には冷凍されたヨモギが入っている。

可愛かずみさんの没後ファンである私がよくお世話になっているのが、「可愛かずみの博物館」です。
グラビアのお仕事もされていたことを初めて知り、サイト内のヌードグラビアを見て思ったのが「女神だ…」。
古本屋でこの写真が収録されている雑誌を買ってきて、プロポーションの美しさに見入ってしまいました。
全てのボディラインがきれいなのはもちろん、かずみさんのおへその形が抜群にきれいで、ため息しか出ませんでした。
時期外れですが、かずみさんの何とも言えない羞じらいや怯えのような表情ときれいな身体を表現したくて取り組んでみました。