縄文時代を想像してみて欲しい。学校なんて存在しなかった。

 

ところが、江戸時代に寺子屋のようなものができ、明治維新後に本格的に現代のような学校教育が始まった。

 

当時は、読み書きソロバンのような学問を教えるだけの場所だった。

 

ところが、

 

美術の時間に作った作品をそのまま持ち帰らせるのはさみしい。

どうせなら、展示してみよう。

だったら技術もそうだ。

だったら、美術や技術の時間に作った作品を展覧しよう。

 

とまあ、ここまでは許せる。

 

しかし、だ。

 

これが当たり前になってくると、次は、

 

だったら展覧会にしよう

だったら、音楽も入れて学芸発表会にしよう

だったら合唱は朝練習の時間を入れて得点化しよう

だったら放課後練習の時間も入れよう。

さらに特別時間割を組もう。

だったら、外部から音楽の専門家を呼んで採点員してもらおう

だったらついでに歌唱の指導をしてもらおう

だったら、演劇部の発表も入れよう

だったら学芸発表会なのだから劇も入れよう。だって学年の発表がないではないか。

学年の発表も入れよう。

だったら保護者も呼ぼう

だったら地域の人も呼ぼう。会長とかPTAとか

だったら駐車場の整備する人が必要だし、自転車置き場の配置も必要だ。

地域の人に手伝って貰おう。もはや学校だけの人員では対応不可能。

地域が学校教育を手伝ったのだから、今度は学校が地域のお祭りに強制参加させられることになる

 

 

 

こうして、学芸発表会とは本来は授業で作品を作るだけだったのが、

いつのまにか、発表する場を設けたことで、学芸発表会に発展するわけだ。

そのための、朝練習や放課後練習、時間割の変更と保護者や地域対応とその計画。

 

そのため、教員の労力は膨大にふくれあがる。

 

運動会だってそうだ。もともとは体育の成果を走ったりして会にしただけのもの。

それがいつの間にか、組体操やダンスなど、運動会のための発表になっている。

 

ちょっと待って欲しい。

そもそも違ったはずだ。

 

修学旅行もそうだ。どんどん学校教育が肥大化している。ビルドアンドビルドだ。これはおかしいと思う。