政治の常識、私の非常識 | 独立直観 BJ24649のブログ

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流行に浮かされずに独り立ち止まり、素朴に真っ直ぐに物事を観てみたい。
そういう想いのブログです。

 先日、某政党の街頭演説の手伝いをした。

 なお、この街頭演説は選挙運動ではない。

 今回の演説の場所は演説の時間である夕方には日影になる。風も強い。

 温かくなりつつあるとはいえ、まだ寒い。

 私はコートを着、その党の幟旗を持ち、街頭に立った。

 しばらくすると、議員秘書が私に声をかけてきた。

「コート、脱ごうか。」

 

 

 

「現行の選挙運動の規制」 総務省HP

http://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/naruhodo/naruhodo10_1.html

 

【選挙運動とは】

 判例・実例によれば、選挙運動とは、「特定の選挙について、特定の候補者の当選を目的として、投票を得又は得させるために直接又は間接に必要かつ有利な行為」とされています。

 

【選挙運動期間に関する規制】

 選挙運動は、選挙の公示・告示日から選挙期日の前日までしかすることができません(公職選挙法第129条)。
 違反した者は、1年以下の禁錮又は30万円以下の罰金に処することとされており(公職選挙法第239条第1項第1号)、選挙権及び被選挙権が停止されます(公職選挙法第252条第1項・第2項)。」

 

 

 

 先月、愛知県知事選挙があった。

 大村秀章候補が街頭演説する画像をインターネットで見た。

 その時、不思議に思ったことがあった。

「なぜ応援弁士はコートを着ていないのだろう。」

 私が見た画像とは違うが、検索したらたまたま自民党の田畑毅衆議院議員(当時。先月21日離党、今月1日辞職)の応援演説の画像が引っかかった(https://www.sankei.com/politics/news/190221/plt1902210028-n1.htmlhttps://www.sankei.com/politics/news/190301/plt1903010015-n1.html)。

 田畑議員以外はコートやジャケットを着込んでいるが、田畑議員はスーツ。

 これは自民党に限らない。

 大村候補は相乗りで民主党系からも推薦されていたが、民主党系の国会議員も同様だった。

 常識的に考えて、寒い。

 が、党派を超えて同じことをしているということは、これが政治の常識なのだろう(この地域特有かもしれないが)。

 なぜこんな格好なのだろう。

 素朴に疑問だった。

 

 

 

 


 

 

 

 そういう画像を事前に見ていたので、コートを脱げと言われることにあまり意外感はなかった。

 で、コートを脱ぐ理由なのだが、

「うちらは彼らと違う(事務所だ)から。」

 今回、私が関わっている事務所は、主役の弁士を応援する立場だった。

 主役の弁士およびその事務所職員はそれぞれイメージカラーのジャケットを着ている。

 私がコートを着ていると彼らの邪魔になる。

 という理屈のようなのだが、納得できるだろうか。

 私が主役と同じ色で異なるデザインのコートを着ていたり、奇抜な色・デザインのコートを着ていたりすれば、イメージカラーによる統一感を出した活動を阻害することになるということで理解できるのだが、私が着ていたコートは主役弁士のイメージカラーとは異なり、グレーのビジネス向けのものだった。

 イメージカラーのジャケットを着込んだ弁士が演説し、同様の格好をした彼らの職員(ボランティアを含む)がビラ配りをし、幟旗を持っている私が地味なコートを着ていても、何も問題ないのではなかろうか。

 私の感覚の方がおかしいのだろうか。何故寒さに耐えなければいけないのかがわからない。

 むしろ、寒い格好をして風邪でも引いたらその方が業務に支障を来すではないか。

 現に、その後、議員秘書の1人が風邪を引いた。

 どういう経緯で応援する立場の者はコート等を着ずに寒さに耐えるという慣例なり常識なりができあがったのだろう。

 イメージカラーは新しい部類の戦術だと思うが、何か前近代的な精神論が入り込んでいる気がしてならない(http://www.asahi.com/senkyo2010/localnews/OSK201007050054.html)。

 私としては因習だとすら思う。理に適っていると思えない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 スーツの上に何も着てはいけないと、事前に説明はなかった。

 私にコートを脱ぐように言った議員秘書は、選挙や政治活動に10年以上関わっているそうで、彼にとってはそんなことは言わずもがなの常識なのだろう。

 しかし、寒い中で寒い格好で活動するというのは常識的ではないわけで、そういう決まりがあるというのは言われなければわからない。

 政治に長年関わっている人の常識感覚と一般の常識感覚との間にズレを感じる。

 議員秘書らがある新人について、

「あの新人はこの程度のこともできていない。」

などとぼやいているのを聞くことがある。

 確かに、その新人に到らない点はある。

 しかし、私は人並み以上に勉強し、政治についても関心が高い方だとは思うが、議員秘書らが常識としているところでも、いつまでに何をするとか、これにはこういう規制があるとか、知らないことの方が多い。というより、ほとんど知らない。

 例えば、街宣車をいつ頃までに手配しておくか、相場を知っている人などどれだけいるのだろう。新聞や本を読むなどしているうちに自然に得られる知識でもあるまい。

 議員秘書らは街宣車をなかなか手配しない新人に気を揉んでいたが、それは彼らが指導すべきことなのではないかと素朴に思った。

 党が新人の指導をすることも特にないらしい。これは私には意外だった。

 組織がしっかりしている公明党や共産党は違うのかもしれないが、政治の世界が長い人は、

「党を頼るな。支部を頼るな。所詮は"自分党"。自分の選挙なのだから自分で何とかしろ。」

などというのが常識感覚なのではないか(倉山満「保守の心得」(扶桑社、2014年)66ページ以下参照)。

 政治の世界を知らずに飛び込んできた新人としては、党の選挙のはずなのにここまで自分でするものなのかと、意外に思う人もいるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 当選すれば、地位や名声は候補者本人のものだ。

 自分の選挙は自分で何とかしろ、というのはわかるところではある。

 それにしても、その候補者が下手な戦いをし、負けてしまえば、党としても困るはずで、ここまで本人任せ・本人負担なのかと、私には意外だった。

 ところで、民間の感覚を政治に持ち込んでもおかしな話になることがしばしばあるが、政治の世界と民間経済は、ある意味で真逆なのではないかと思った。

 政治の世界は二大政党制へ向かっている。つまり寡占に向かっている。

 他方、民間経済は独占禁止法によって独占・寡占は規制されている。

 政治の世界には独占禁止法は適用されず、市場支配力を持つことが許されている。

 競争原理の中で企業は合理化を進めるが、大政党にはそういう原理が働かないのではないか。

 衆院選は小選挙区制になり、派閥政治は弱まりつつある。寡占市場ではあるが議席が1つしかないので厳しい戦いを強いられる。党として戦うという姿勢が強くなり、合理化も図られやすいだろう。

 しかし、地方選挙では多分に中選挙区制が維持されており、昔ながらの戦い方が温存され、党が組織として選挙を戦うという方向には向かっていないのではないか(ちなみに、地方選挙で定数1の選挙区は、比例復活もないわけで、完全な小選挙区制。)。

 「日本の総理大臣は参議院選挙で決まる」という見解もあるが、「日本の政治を左右する」参院選も小選挙区制ではない。(倉山満「2時間でわかる政治経済のルール」(講談社、2019年)117ページ以下)。そういうことを考えても、昔ながらの方法や感覚を変えようという意識は起きにくいように思う。

 なんとなく、そういうことを思った。

 

 

 

 

 

 

 名古屋市では、河村たかし市長の率いる減税日本がある程度の勢力を持っている。

 河村市長は、議員はパブリックサーバント(公僕)なのだから無償でもいいくらいだという旨を主張していた覚えがある。

 減税日本は議員報酬削減を主張している。

 一見、もっともらしく思える。

 しかし、霞を食って生きられるわけでもなく、議員たちは自身でカネ集めの活動を強いられることになる。

 報酬を削減すればするほど、議員はカネ集めに労力を割き、カネをくれる人々の方に忠誠心をおぼえるようになる。

 公務に割かれる労力の割合は減り、公への忠誠心も下がる。

 すると、同党が掲げる「議員のパブリックサーバント化」に逆行する結果になる(http://genzeinippon.com/seisaku)。

 仕事が大変で給料が安ければ、それは民間ではブラック企業と呼ばれるのであって、そういう企業に忠誠を尽くそうという人はほとんどいないだろう。

 河村市長は、ブラック企業に忠誠を尽くせ、議員は公僕すなわち奴隷、と言うに等しい。私利私欲の欠片もなく、給料などなくても公に身を捧げる聖人が望ましいのかもしれないが、それは絵空事に過ぎず、一般には恩義を感じてこそ忠誠心も芽生えるというものだろう。まぁ、報酬が高くてもカネ集めばかりに精を出す人もいるだろうし、恩知らずもいるだろうが、だからといって報酬を下げ過ぎると逆効果になる。

 こういう関係は、党と候補者との間にも存在するのではないだろうか。

 政治活動や選挙戦を本人任せにすればするほど、自分の力で勝ったとか、党はろくに支援してくれなかったとか、党への忠誠心は下がるだろう。落選した場合には、人によっては、使い捨てにされたと、被害者意識すら抱くのではないか。

 地上波テレビ番組で活躍した芸能人など、よほどの知名度があればまだしも、普通は選挙のずっと前から日頃の政治活動によって知名度を上げるものだろう。選挙が近づけば近づくほど政治活動に力を入れる必要性が高くなり、収入も減ることだろう。

 実際に党がどの程度の補助をしているのかは知らないが、傍から見ていると、費用や作業の本人負担が思ったより大きいように見える。

 もちろん、党の看板を借り、票に繋がる人脈も借りられるところがあり、無所属で完全な個人戦を戦うよりも有利なのは確かなわけで、恩義を全く感じないということもないだろうが、期待したところよりも党の支援が少なければ少ないほど、党への恩義も生じにくくなり、忠誠心も生じにくくなるのではないか。

 

 

 

 教科書をいくら読んでも、新聞をいくら読んでも、こういう政治の実情はわからないところだと思う。

 私としては、政治の世界には常識感覚とは異なるところが多分にあるのではないかと思う。

 ある議員が、

「あの新人は簡単にレッドゾーンを飛び越える。」

と嘆くのを聞いた覚えがある(なお、違法行為をしたという意味ではない。)。

 確かにその嘆きもわかるのだが、どこからどこまでがセーフティーゾーンなのか、私もわかる自信はない。

 別のある議員は、「政治は斜陽産業」と自嘲気味に言っていた。景気が良くなると、そういう傾向は強くなる。

 その上、党の支援も薄いとなると、優秀な人材が政治の世界に来にくくなるのではないか。

 しかし、大政党としては、各区で1人や2人は優秀な人材は来るだろう、それで十分だと、高を括っているのではないか。各区に候補者を10人も20人も集める必要はない。

 とはいえ、資金が潤沢な即戦力の新人など望み薄のはずで、支援や育成をもっと手厚くしてもよいのではないかと、素朴に疑問に思う。

 

 

 

 「常識感覚」と述べたが、素人感覚でもある。

 選挙に長年関わっている人にしてみれば、私が今回述べたことは素人の分際で生意気だと映るかもしれない。

 なるほど、あの仕組み・慣例はこういう意味があったのかと、私にもいずれ膝を打つ日が来るかもしれない。

 しかし、寒い日にはコートを着たいものだ。