【熊本地震】熊本城修復以上に望むこと【神社修復】 | 独立直観 BJ24649のブログ

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 熊本県の有識者会議が、復興策の提言を取りまとめた。
 熊本城の修復が重点項目に入っているようだ。


「「熊本は創造的復興を」 熊本城修復、観光資源に 有識者会議緊急提言」 産経ニュース2016年5月12日
http://urx.mobi/tQhI

「 熊本地震を受け、熊本県が設置した「くまもと復旧・復興有識者会議」座長、五百旗頭(いおきべ)真・熊本県立大理事長)は11日、将来に向けた緊急提言をまとめた。今回の地震対応を検証し、南海トラフ巨大地震など近い将来に発生が想定される次の大地震に備えることなどを求めた。
 提言では、インフラ復旧や、避難所から仮設住宅への移行、災害がれき処理を迅速に実施することや、長期的視点に立った「グランドデザイン」を描き、街づくりを進めることなど14項目のポイントを挙げた。
 熊本のシンボル、熊本城については修復の過程を見てもらう発想を採用し、観光客を呼び戻す取り組みを提案した。
 一連の地震で損傷した家屋の耐震補強を早急に進めるための公的支援の強化も求めた。
 国に対し、東日本大震災と同水準の財政措置を講じることも要請した。
 会議後、五百旗頭氏は記者団に「単なる復旧ではなく、『創造的復興』を行うことに意味がある」と強調した。蒲島郁夫知事は提言をふまえ「1日も早く県としてのプランを策定したい」と語った。6月5日に再び会合を開き、最終提言を取りまとめる。
 同会議は政府の「東日本大震災復興構想会議」議長を務めた五百旗頭氏ら5人で構成され、10、11の両日で計5時間、議論した。
 災害に強い街づくりに向けた議論は県都、熊本市の「震災復興本部」でも始まっている。」


 「東日本大震災復興構想会議」議長を務めた五百旗頭真氏が座長を務め、「創造的復興」などと言っている。
 東日本大震災においてはかかる発想は不評だったと思うのだが、どうなのだろう。

 有識者会議の提言が具体的にどのようなものだったのか、確認できなかった。
 ひょっとしたら提言されているのかもしれないが、言っておきたいことがある。
 確かに、映像を見るに、熊本城が一刻も早い修復を要するのはわかる(http://urx.nu/tRxb)。
 しかし、熊本城と同等かそれ以上に、神社の修復および再建が必要なのではないか、と。

 熊本城は観光地だ。
 既に城主は既にいない。
 対して、神社は熊本城に比べて生活に密着している。
 神社は歴史的遺物ではない。
 また、熊本城よりも歴史が古いものもある。
 神社の修復・再建の方が重要性・緊急性が高いのではないか。
 有識者会議は、熊本城の修復過程を見せて外貨を稼ぐなどと算盤を弾いているが、復興にあたり、神社についてはどの程度の重要性を見出しているのだろうか。

 熊本地震発生の直後、阿蘇神社の無惨な姿を撮ったツイートを見た。
 悲しみが伝わってくる。





 阿蘇神社は国によって重要文化財に指定されている(http://urx.mobi/tQhJ)。
 したがって、修復費用の補助を受けられる。


「【熊本地震】 旧制五高、岡城跡も… 被災文化財は360件超」 産経ニュース2016年5月11日
http://urx.mobi/tQhM

「 文化庁は10日、熊本地震で損壊するなどの被害を受けた国の文化財の件数が134件になったと発表した。このほか県や市町村指定、登録を含めると、被害が認められた文化財は九州で少なくとも364件に上る。熊本城に加え、夏目漱石が教壇に立った旧制第五高等学校(現熊本大)本館では、れんが造りの煙突が倒壊した。滝廉太郎作曲「荒城の月」にゆかりのある大分県竹田市の岡城跡でも石垣にずれが発生した。
 最初の震度7を観測した4月14日以降の地震回数は1300回を超えている。熊本、大分県の担当者は「余震が続けば、文化財の被害が拡大する恐れがある」と指摘する。 文化庁などによると、被害を受けた国の文化財は134件だった。このうち重要文化財は43件、史跡・特別史跡30件、名勝10件などとなっている。国宝の被害はなかった。県指定は82件、市町村指定は148件だった。
 県別は熊本県が237件と最も多く、このうち85件が国の文化財だった。阿蘇神社(阿蘇市)楼門は全壊した。次いで大分の50件で、宇佐神宮(宇佐市)の境内も被害を受けた。そのほか福岡38件、佐賀28件、長崎5件、宮崎6件となっている。
 文化庁によると、国の重要文化財が被災した場合は、所有または管理する自治体や団体に国が修復費の最大85%を補助する。
 ただ、県や市町村が指定した文化財には適用されない。
 熊本県の蒲島郁夫知事は9日、政府に修復費の補助拡大を要請した。馳浩文部科学相は10日の記者会見で、地元自治体への新たな財政支援策を検討する必要があるとの認識を示した。「特別立法も一つの選択肢」と述べた。」


 阿蘇神社とて100%の補助を受けられるものではないようだ。
 重要文化財などに指定されていない神社であれば、あまり補助金は出ないであろう。
 今回の熊本地震で、存続不可能となる神社が出てくるのではないか。
 とすれば、当該地域が受け継いできた文化や伝統が廃れてしまうことになりかねない。
 そういう事態は防がれるべきものであるはずだ。

 ところで、話は変わるが、鎌倉幕府は北条泰時が執権となり、貞永元年(1232年)に御成敗式目を定めた。
 歴史教科書では、「御家人に向けてその権利や義務、裁判の基準をわかりやすく示すためのもの」などと説明されている(杉原誠四郎ほか「市販本 新版 新しい歴史教科書」(自由社、平成27年)85ページ)。
 その第1条は、「神社を修理して祭りを大切にすること」だった(http://urx.mobi/tQhO)。
 意外ではないか。


「こんなに近代的だった 武家のルール 【CGS 日本の歴史 5-4】」 YouTube2016年5月6日
http://urx.mobi/tQhQ



 わが国は、古来、神社を大事にしてきた。
 御成敗式目は、多少の変更を加えながら、明治維新まで存続した(渡部昇一「決定版・日本史」(育鵬社、2011年)86ページ)。

 城よりも神社の方が本来は修復・再建の優先順位は高いのではないか。
 にもかかわらず、熊本城の方がより高いと考えるのが当たり前となっている気がする。
 「神社よりも城」と考えてしまうのもまた、戦後レジームなのではないかと思う。
 というのは、日本国憲法およびGHQによる占領統治が絡んでくるからである。

 東大憲法学の説明は大雑把に言ってこうだ。
 大日本帝国憲法の統治下で、神社神道は国教として優遇されていた。
 神社神道は軍国主義を支えた。
 敗戦後、解放者GHQが「国教分離の指令」(神道指令)を出した。
 そして、日本国憲法20条が置かれ、信教の自由および政教分離が定められるのである。

 日本国憲法は、神社神道に特別な保護を与えないという発想を基本としている。
 神社を優先的に保護しようなど、日本国憲法の発想からは出てこない。
 御成敗式目とは逆だ。
 大学生の間で標準的に読まれている「芦部憲法」を引用しておく。
 かかる神道認識・歴史認識が憲法学者の標準であり、大学生の標準となっている。
 吐き気をもよおされる方もおられるかもしれないが、これを読んでおくと、下で紹介する山村明義氏の解説がわかりやすい。


芦部信善 「憲法 新版補訂版」 (岩波書店、1999年) 141~143ページ

信教の自由

 近代の自由主義は、中世の宗教的な圧迫に対する抵抗から生まれ、その後血ぬられた殉教の歴史を経て成立したものである。それだけに、信教の自由は、あらゆる精神的自由権を確立するための推進力となったもので、歴史上きわめて重要な意味を有する。したがって、信教の自由は人権宣言の花形に数えられ、各国憲法のひとしく保障するところである。

1 明治憲法の信教の自由
 明治憲法も、もちろん信教の自由を保障していた(二八条)。しかも、他の自由権と異なり、法律の留保をともなわず、その限界は、「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という基準によって、憲法上定められていた。しかし、この基準は、それに合するかぎり、法律によらず命令によって信教の自由を制限することも許される、という解釈を認める根拠になった。また、実際には、「神社は宗教にあらず」とされ、神社神道(国家神道とも言う)は国教(国から特権を受ける宗教)として扱われ優遇された。その反面、他の宗教は冷遇され、キリスト教や大本教などのように弾圧された宗教も少なくない。したがって、信教の自由は神社の国教的地位と両立する限度で認められたにすぎず、その完全な実現は根本的に妨げられた。国粋主義の台頭とともに、神社に与えられた国教的地位とその教義は、国家主義や軍国主義の精神的な支柱となった。
 神道のこのような特殊性を否定し、わが国に信教の自由の確立を要請したのが、一九四五年(昭和二〇年)一二月連合国軍総司令部から発せられ、「神道の国家からの分離、神道の教義からの軍国主義的・超国家主義的思想の抹殺、学校からの神道教育の排除」などを命じた「国教分離の指令」(「神道指令」とも言う)である。この指令につぐ天皇の人間宣言(第三章三1参照)によって、天皇とその祖先の神格が否定され、神道の特権的地位を支えてきた基盤の消滅が明確にされた。日本国憲法は、このような沿革を踏まえて、個人の信教の自由を厚く保障するとともに、国家と宗教の分離を明確化している。」


 日本国憲法の信教の自由は、神社や神道の否定と表裏だと言って過言でない。
 神社や神道は、数多ある宗教(新興のカルト宗教を含む)と同列に扱われることとなるが、むしろ劣位に置かれやすいとも言える。
 それにしても、戦前にもキリスト教徒は約20万人いたそうで、「キリスト教・・・のように弾圧された宗教も少なくない」とは極めて疑わしい(http://urx.mobi/tQhT)。
 偽史に立脚して成り立つ憲法など憲法ではない。


渡部昇一 「渡部昇一、靖国を語る 日本が日本であるためのカギ」 (PHP研究所、2014年) 115ページ

「一体明治以後の日本で、国民の信仰対象が神道以外まったく許されなかった実態がどこにあるというのでしょうか。仏教系の学校はもちろんのこと、戦時中ですらキリスト教系の学校が健在だったことをご存じないのか。無知蒙昧にも程があります。」

※ 渡邉恒雄氏に対する批判

渡部昇一、靖国を語る 日本が日本であるためのカギ/PHP研究所
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 憲法改正というと9条が取り上げられることが多い。
 物理的に日本を滅ぼすのが9条だ。
 対して、20条(および89条)は精神的に日本を滅ぼすものだ。
 物理的に安全を確保すべく、9条改正が先決ではある。
 当面は9条改正についての国民的理解を得ることの方に注力した方がよい。
 とはいえ、20条についても改正なり問題提起なりの議論があってよい。
 20条の前提となっている思想は、日本精神の否定だ。
 東大憲法学的な自虐洗脳を70年近く続けてきて、今や神社や神道を日本人自身が理解するのが難しい状況になっている。かく言う私もよくわかっていない。
 これから先、神社や神道の等身大の理解を取り戻し、日本国憲法は不当な憲法だという理解を広げていかねばならないと思う。


山村明義 「GHQが洗脳できなかった日本人の「心」 アメリカの占領政策と必ず乗り越えられる日本」 (KKベストセラーズ、2016年) 78~94ページ

Ⅳ GHQ vs. 神道

■ 神道は「日本人の精神性」そのものである

「あなたは、まるで”神道オタク”ですね。どうして神道なんか勉強しているんですか?」
 最近、私はある若い日本人女性からこう指摘され、かなり驚いたことがある。
 確かに私自身、もう30年以上も日本の神道を勉強し続けている。それは「神道が大変奥深いものであり、何より歴史的にも”日本らしさ””日本人らしさ”の基本中の基本だ」と考えているからだが、まさか日本人女性にこのような「日本否定」を意味することを言われるとは、と思わず絶句してしまったからだ。
 「グローバル化」の進む現代日本は、「日本らしさ」、「日本人らしさ」を失いがちな時代であり、それは「アイデンティティの喪失」として、日本国内ではすでに数十年前から指摘されている事実だ。それだけに、「日本人の精神性の基層」にあるはずの神道を、かなり悪意を込めて排除することは、日本人が今後「日本の精神性とは何か」、「日本の心とは何か」を外国人にも説明できるはずはないということを表し、「GHQの日本洗脳」は戦後ここまで進行したということへの証明に近いからだ。
 実際に、「日本らしさ」、「日本人らしさ」という場合に、精神的な面において最も中核的な存在になるのは、主観的な意見ではなく、客観的な史実に照らしても、日本の神道である。能や狂言、日本舞踊や日本の礼儀作法や武士道、その他多くの様々な日本文化には、明らかに神道の影響が見られる。日本の仏教も、茶の湯や禅、書画やわび・さびという精神性に寄与しているのは事実だが、それは飛鳥時代に仏教が伝来し、神道と融合してからでき上がったものだ。
 ちなみに、神道とはその呼び名があったかどうかは別として、日本人が古代から続けてきた「祈りと感謝」の象徴であり、「祭」を通して神々と人、人と人とが交流をする日本人伝統の「コミュニケーション・ツール」であった。
 また、神社を取り囲む「鎮守の森」に見られるように、世界の宗教の中でも生物多様性の高い「日本人の精神性そのもの」と言って良い。つまり、神道とは、日本の「地域性」や「国民性」のみならず、日本と世界の「融合」を表しているのである。
 さらに「八百万の神々」の価値観は、仏教やキリスト教、イスラム教、ヒンズー教など他国の神々とも実際に融合し、日本人の「和」の精神の象徴になっている日本の伝統文化そのものである。
 戦後、GHQの占領期を経た日本社会では、様々な「日本人論」が現れたが、「日本人らしさ」を論じる場合に、古事記や日本書紀の記述の全くない「日本人論」にはあまり意味がない。その古事記や日本書紀などは、日本の神道人たちが自らの民族の誇るべき「神典」として、最も重要視している書物であり、かつ教えである。総体として「日本人らしさの精神性」とは、一部の日本仏教や儒教を除いて、神道以外にはあり得ないからだ。

■ 「日本文明」は、世界六代文明の一つ

 そして、常に「日本人らしさ」に立ち返るのは、何も日本のためだけに必要なのではない。
 諸外国から見る日本の伝統文化、そして日本民族の歴史と伝統文化と生き方を総合した「日本文明」として見た場合、その特色を表しているのが、自然と人が「共生可能」な環境を作り上げた日本の神道であると言えるのだ。
 国際政治学者のサミュエル・P・ハンチントンは、「世界の主要文明」を次の6つ、ないしは7つに分けている。
 それは、西欧キリスト教文明、ロシア正教文明、イスラム文明、ヒンズー文明、中華文明、日本文明、中南米ラテン・アメリカ文明――。最後の中南米ラテン・アメリカ文明は、スペインに制服されて以来、別の類型になったと言われるため、「日本文明」は世界に現存する「六代文明」の一つに位置づけられているわけだ。
 また、20世紀を代表する歴史学者のアーノルド・トインビーは、来日して伊勢の神宮内宮を見て、「世界の文明の源がここにある」と語り、それ以前は日本をはずして考えていた「文明」の中に「日本文明」を入れた。伊勢の神宮のとりわけ内宮の姿に日本の精神性と生き方を見出したからであろう。
 日本人は日頃あまり意識しないが、日本に多神教の神道が生きていることは、優れた文明史家や歴史学者たちが見れば、世界に誇れる「普遍性」があると同時に、「異質性」として肯定的に理解できるのである。
 世界の文明史の存在理由という点では、仏教もそうだが、キリスト教やイスラム教などその固有の宗教が一つの土台となって「文明観」が形成されるのは明らかである。だから日本に対して「神道の精神性」を消してしまえば、「日本人は日本人ではなくなる」と言って過言ではない。

■ 「神道指令」――日本人の精神的武装解除

 ところが戦後、日本の神道は、日本人が意識しないうちにGHQからその内容を極端に歪められ、遠ざけられる存在となってきた。
 この日本人の「精神的武装解除」を行ったのがGHQであった。GHQは昭和20年12月、「神道指令」を出し、神道を公共機関などで教えることを禁じた。この「神道指令」のポイントは、マスコミと教育を担当したGHQのCIEという組織内で決められ、「教育四大指令」の一つとして出されていることだ。
 戦後日本では、キリスト教や仏教は、早くからマスコミにも登場していたが、学校現場で神社に参拝しに行くことはおろか、地元の歴史を学習したり、マスコミで「神道講座」を行ったりすることも許されなくなった。
 つまり、戦後日本人の教育現場やマスコミの活字誌面や番組では、「神道」の内容を学習することも、また自由に論じることも「占領政策として固く禁止する」という宗教教育環境が、「西欧キリスト教文明」の手によってでき上がったということが重要なのである。
 これは憲法20条の「信教の自由」に反し、日本人にとっては「差別的」ですらあった。
 その事実は、戦後の「宗教系学校」の数の上でも、ハッキリ証明できる。現在、日本全国で文部科学省が認可した「宗教系学校」は、全国で849校ある。そのうち、ミッション・スクールなど「キリスト教系学校」はなんと565校で、過半数を超えるが、「神道系学校」は、天理高校・大学など「教派神道系」の学校を除くと、皇學館と國學院の2校だけなのだ。
 さらに、米国人は占領当時から現在に至るまで、日本の神道をどのように考えていたのか。
 それを考える時に、まず重要なのは、昭和天皇の「人間宣言」である。昭和21年1月1日、連合国総司令官マッカーサーは、昭和天皇に一般的には「人間宣言」と喧伝された「詔書」を出させた。その詔書には、「人間」や「宣言」という文字はなかったが、「天皇ヲ以テ現御神トシ」、「架空ノ概念ニ基ク」という一文があったことから、そう呼ばれた。
 そのため、後世の米国人たちは、「マッカーサーが『人間宣言』を出したから、日本人は、天皇が神であるという迷信から解放された」と考えるようになったと信じた。つまり、宗教的にはマッカーサーが日本人の「神概念」を変えたと言うのである。
 だが日本の神道では、歴史的に「信教の自由」が保証<ママ>されており、仏教だろうとキリスト教だろうと、別に何を信じても良いのである。それが「八百万の神々」の精神性であり、GHQは大いなる誤解をしていた。欧米人中心のGHQの考えていた日本の「神道理解」とは、その程度のものだったと言えるだろう。

■ 総理大臣が靖國参拝できない本当の理由

(中略)

■ 根拠なき「国家神道」のレッテル貼り

 GHQの宗教改革は、まず「国家神道」というジャンルを作り上げ、これを「超国家主義に基づく悪」として、「神社神道」や「教派神道」などを分断するというものであった。「分割統治」による占領政策の典型的な手法である。
 そもそも、神道を「国家神道」と「神社神道」に分けることには無理があった。
 「神社神道」は、現在では宗教法人である神社本庁の元に包括される神道のことであるが、これはGHQの方針に先手を打つために日本側で作られ、戦前はそのような呼び方はなかった。一方、「教派神道」は、過去の神道を生かしつつ、明治時代に禁じられた「布教」ができるようにした神道である。
 一方、「国家神道」とは、「国体の教養として、大日本帝国憲法と教育勅語によって、軍国主義的イデオロギーとして確立した超国家主義的非宗教」とされている。
 だが、「国家神道」は帝国憲法と教育勅語には本来関係がなく、「国家神道というよりも神社神道や教派神道のほうが、平和的要素が強い」とされるが、内容的には、「国家神道」とあまり変わりがない。帝国憲法と教育勅語のどちらにも、「神道を国教にせよ」などとは書かれておらず、一部の神社には公金が支出されていたが、民社や村社と呼ばれる日本のほとんどの神社には、日本政府の予算は出されていなかった。また、日本では戦中・戦前共に「信教の自由」はあくまで保証<ママ>されていた。実際に、キリスト教のカトリックの総本山であるローマ法王庁は、戦前から戦後まで一貫して神道は、「信仰告白が法によって強制されていないので、国教ではない」と判断していた。
 さらに当時の一般の日本人たちの多くは、「国家神道」という言葉すら知らなかった。戦争に勝つためには、神社を参拝し神に拝むことが当たり前だと考えていたからだ。これは、マッカーサーを始め、当時の多くの米軍兵士がプロテスタント信仰による神を拝んでいたのと同じ構図である。
 「国家神道」という言葉は、元々仏教家出身の神道系大学教授だった加藤玄智が戦前にその著書などで使い始め、それを先のホルトム(ダニエル・C・ホルトム。上の中略の部分に登場)が見つけ、「日本は国家神道の国である」というレッテルを貼ったことが始まりである。事実、ホルトムはその著書『日本と天皇と神道』の中で、「神道が日本人の精神状態を支配し」、「国家神道が日本の救世の使命を持っている」と書いている。
 ところが、日本は、聖徳太子と聖武天皇以来、「神仏習合の国」なのである。これは、神道に対して重大な認識と知識の不足があるだけでなく、戦争当時も存在した日本仏教に対する侮辱であると言えよう。
 そしてホルトムは、神道の間違った認識を元に、占領初期の昭和20年9月22日、CIEからアドバイザー委嘱を受け、GHQ宛にこんな主旨の手紙を出している。
 ――「教育改革に賛同する文部大臣の登用」を始めとする「文部省改革」、「学校教育における神話や非歴史的教材の除去」を始めとする「教科書改訂」、「天皇がアマテラスの子孫で現人神であることの否定」、「学校教育における国家神道儀式の全面的見直し」、「御真影の廃止」、「神社参拝・神棚拝礼への強制的参加の禁止」、「神社・神職に対する公的機関の支援の削減」、「神祇院の廃止」などの「宗教改革」の必要性がある――。
 とりわけホルトムが助言した「宗教改革」の内容が、戦後すべて実現していることは注目に値する。ホルトムの意見がGHQの宗教改革に強い影響を与えたのは間違いない。
 ホルトムの言説は、日本人を「幼児である」と断言し、「再教育」を施すべきとするGHQの教育政策と、その後の日本の教育改革にも影響を及ぼしたジェフリー・ゴーラーや、後に『菊と刀』を書いたルース・ベネディクトらに対しても大きな影響を与えた。
 また、キリスト教の宣教師として来日経験のあったホルトムは、GHQの宗教政策のアドバイザーであり、それを根拠に「国家神道」という言葉が一人歩きし、GHQの占領政策となって日本中に広がって行く。
 教育心理学や発達心理学、機能主義心理学などという戦後日本の心理学者たちもそれに加担した。戦後日本教育に大きな影響を与えたデューイは、ゴーラーらの知人で、占領後の教育政策として浸透した。このGHQの誤った言説に、戦後のリベラルな宗教学者や教育学者、そして一般の日本人は、いまも多大な影響を受けている。
 その証拠に、学説上「国家神道」とは日本人全体、あるいはほとんどが信仰する「国教」でなければ成り立たないはずだが、そんなものは日本中どこを探しても存在しなかった。戦前から日本人は「神道」以上に仏教を信仰していたからだ。
 つまり、GHQの「宗教改革」とは、実体的には極めて浅薄な根拠と理論で行われ、「国家神道」とは「幻想」に過ぎないものだった。

■ さすがに失敗した、「キリスト教国化」

 後で述べるが、GHQの本音は、占領後の日本には、戦時中に強い精神性を発揮した日本人から、神道を完全に取り除く必要があるというものだった。神道を「封建主義」や「軍国主義」、あるいは「超国家主義」とラベリングし、当初は日本占領政策の障害となる「国家神道」を徹底的に排除し、日本人から神道の精神を奪うための悪意と狙いが込められた。
 このことは、歴史的に証明できる事実である。なぜなら、マッカーサーは、「神道」に代えて「キリスト教」を導入し、「日本人7000万人をキリスト教徒にするつもりだ」ということを自らの手紙でハッキリ述べているからだ。
 マッカーサーは敗戦下の「日本人は精神的空白」にあり、簡単にキリスト教信者になると考えていた。実際に、全世界から3000人近い宣教師を集め、聖書を配布する政策を行った。
 GHQは、CIEという組織が「神道指令」を始めとする宗教政策担当し、マスコミ政策や教育政策と同等以上に強引なやり方を貫いている。
 その「神道指令」は、GHQ内部では「爆弾」と呼ばれ、「最後の重要指令」と位置づけられていた。それは初代CIE局長のケネス(通称ケン)・ダイクが担当した。
 ダイクは、戦時中は陸軍のOWIに所属し、日本人から戦意を喪失させる宣伝・洗脳工作を担当していた。
 日本人から神道をすべて奪うことに対しては、CIE内部でも異論があったが、日本人の「幼稚で奇妙な精神性」を変えるために、マッカーサーとダイクは、日本の神道の力を失わせる政策を強引に推し進めたのだ。
 例えば、伊勢の神宮に対しては、ダイクの部下であったウイリアム・バンス宗教課長(大佐)が、「神宮は、一般人民の崇敬や参拝は一切禁じられるべきである」と日本側に通告した。日本の神社関係者が「伊勢の神宮は天皇の廟である」という考え方を提示したところ、それを逆手に取った圧力であった。
 その結果、ホルトムが語っていた神道指令の内容の他に、「伊勢の神宮には公金を一切支出しないこと」を条件に、国民の伊勢の参拝が認められた。日本人は、危うく伊勢の神宮の参拝ができなくなるところであった。

■ 「私は無宗教です」と答える日本人がなぜ多数生まれたのか

(中略)
 日本人の宗教的基層としての神道は、日本の再教育政策の一貫として伝統文化を理解のないGHQの手によって、まさに「一度は殺された」のである。

 しかし、最近の日本人は、ようやく他国の宗教を押しつけられたことのおかしさに気がつき始め、様子が変わってきた。
 まず平成25年5月、島根県の出雲大社で「平成の大遷宮」が行われたのを皮切りに、同年10月には伊勢の神宮で20年ぶりの式年遷宮が行われた。すると、年間1000万人以上の参拝客が訪れ、伊勢は久しぶりの活況に沸いた。東日本大震災以来、東北だけでなく、全国の神社では、長い歴史と伝統に支えられた由緒ある祭が次々と行われ、平成27年には、京都の上賀茂・下賀茂神社で、21年ぶりの「式年遷宮」が行われた。京都で最も古いとされる上賀茂神社では、式年遷宮で地元の清水を使用した「神山珈琲」が振る舞われ、演出家の宮本亜門氏が、奉納劇「降臨」を上演したりして盛況を呈している。
 「自分を知る」、「地元を知る」ということは、まず自らの地元で最も古い歴史を有する神社や寺院を知ることから始まる。そのような歴史と伝統文化への学習は、GHQに支配された「学校」ではなく、むしろ民間の日本人から生まれた。
 なぜ日本には美しい自然が残ったのか。なぜ日本には豊かな木々や森が残されたのか。それは、GHQが持って来たキリスト教的な価値観では全くない。それを伊勢の神宮に代表される神と人との「共生」をテーマに研究している日本人も増えた。
 日本人は美しいもの、良いものに対して「後世に残す」という行為を繰り返してきた。その一方で、新しいものを貪欲に取り入れてきた。その日本人の精神性には、日本の神道が常に存在していた。繰り返し言おう。「(国家)神道が軍国主義・超国家主義の象徴だった」というのは、幻想である。ようやく日本人は、その幻想から目覚め、「日本らしさ」や「日本人らしさ」を取り戻しているのである。」

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 神社は日本人の精神的支柱を担うにもかかわらず、いや、だからこそ、「テロ」に晒されている。
 伊勢志摩サミットを迎えるにあたり、神宮にはテロ対策が敷かれるだろうが、テロ対策が必要なのは神宮だけではない。
 近年、神社に対する放火が相次いでおり、高山神社や新田神社などの由緒ある神社も被害に遭っている(山村明義「神社放火は日本人への精神的テロである。」(ジャパニズム第23号(2015年2月)、青林堂)140~143ページ、http://urx.mobi/tQhU)。
 神社は伝統的に参拝者を信頼してきたが、いよいよこの伝統が危うくなってきている。
 神社がこういう被害に遭っていることに気がついていない国民の方が圧倒的多数であろう。
 マスコミは「神社を守れ」という世論を換気してこなかった。
 依然としてわが国の言語空間は神社に冷淡であり、占領統治を脱しておらず、戦後レジームにあることがわかる。

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 「くまもと復旧・復興有識者会議」の座長を務める五百旗頭氏に、震災復興にあたって神社を重視する姿勢がどれほどあるか、疑わしく思う。
 なぜなら、五百旗頭氏は小泉純一郎元総理大臣の靖国神社参拝を批判しており、GHQに恭順して「精神的武装解除」をしてしまっていると見られるからだ(渡部「靖国を語る」186ページ、http://urx.mobi/tQhY参照)。
 「創造的復興」とは、地域の文化や伝統が壊れても構わない、神道を基底とした精神が廃れても構わないという側面を有しているのではないかと疑ってしまう(あくまで有識者会議の議事録などは見ておらず、報道から伝わってくる印象ではあるが)。

 阪神淡路大震災からの復興にあたって、神社の修復・再建が大きな役割を果たしたという例がある。
 生田神社だ。
 熊本地震からの復興にあたっても参考となろう。


山村明義 「神道と日本人 魂とこころの源を探して」 (新潮社、2011年) 129~136ページ

神社の再興こそが神戸の復興に

 実際に「禍事」から見事に復活し、牽引役となったモデルが、そう遠くない過去の日本の神社にもあった。兵庫県神戸市の「生田神社」である。
 阪神・淡路大震災の衝撃から震災の中心地・神戸の復興に向けて、いち早い牽引役を果たした生田神社。現在、神社本庁の「長老」を務める加藤隆久宮司が奉職する兵庫県の古社である。
 生田神社は長く「神戸の総鎮守」として、いまも三ノ宮駅近くの中心部に鎮座する神社だ。
 神功皇后が三韓征伐の帰途、現在の神戸港周辺で船が進めなくなったため天照大神に御神託を伺うと、稚日女尊(わかひるめのみこと)があらわれ、「吾は活田(生田)長峡国に居らむ」といわれて以来、約千八百年。今日まで神戸市民の崇敬を受け続けてきた。
 東日本大震災と規模は違うが、あの悲惨な震災が起きたとき、祭神・稚日女尊を祀る本殿の損傷は奇跡的に少なかったものの、拝殿は全壊。第二鳥居の石鳥居は無惨に折れて粉砕し、第一鳥居や神社の出入り口にあたる二階建ての楼門が大きく傾き、その惨状を物語っていた。
 震災後、加藤隆久宮司は、それまで縁がなかった歌が、突然のように口をついてわき上がるようになった。以下は、加藤宮司が震災直後につくった有名な歌である。
「朝まだき床持ち上ぐる上下動 怒濤の如き南北の揺れ マグニチュード七・二てふ大地震は神戸の街を崩ゑ散らかせり 御社殿も石の鳥居も灯籠も あはれ瞬時に崩れ倒れぬ うるはしき唐破風持ちし拝殿は 地上に這ひて獣のごとし 皇神の鎮り給ふ本殿は 涙の滲む目交にあり(後略)」(※)
 加藤宮司の目には、生田神社の拝殿の柱という柱が倒壊し、無惨に崩れ落ちた社殿の屋根が、大きな獣の甲羅のように映った。
 神戸の街全体も悲壮感に包まれ、いったい、いつ復興できるかもわからない。市民が悲嘆にくれる状況下で、加藤宮司も鉄槌で殴られたような落胆と喪失感に襲われ、激しく意気消沈していた。実際、これから神社を再興しようにも膨大な年月と資金のかかることが予想され、ただ茫然自失とするばかりで、正直、「もう、ダメだ」と何度もやる気をうしないかけた。
「もう神社の再興は、できないかもしれない」
「私の人生もこれでもう終わりかな」
 そう思った瞬間、加藤宮司の脳裏に、亡くなった父親の加藤錂次郎先々代宮司の姿があらわれ、こんな言葉を語りかけてきたという。彼の耳には、父親の声がまるで神の啓示のごとく、自分をこう諭しているように聞こえた。
「おーい、あんたは大学の先生で、文学博士で、全国の宮司でも唯一の博士学位をもっているということでやっていたんだろうけれども、あんた神社を建てていますか? 私は多賀大社と焼けた吉備津彦神社、そして大東亜戦争で六百発の焼夷弾で焼失した生田神社を苦労して建てて、三べんも神社を建てた」
 事実、愛知県出身だった生前の先々代宮司の古・加藤錂次郎氏は、明治時代の皇學館大學に成績一番で入学。滋賀県の旧官幣大社の多賀大社と岡山県の有名な吉備津彦神社、そして神戸の生田神社の三社を建て直し、「造営宮司」と呼ばれた誉れ高い宮司だった。とりわけ彼は、昭和二十年六月の神戸大空襲で全焼した生田神社の社殿を見事に蘇らせていた。
 古・錂次郎氏からいわれた通り、たしかに自分は、神戸女子大学教授など多くの地位と名声はあったものの、神社の社殿を造営したことは一度もない。
 父親の言葉を聞いた加藤宮司は、その瞬間、それまでの消極的だった発想が、前向きで積極的なものにかわった。父親の声によって我にかえった加藤宮司は、自分本来の心を取り戻し、それから心機一転、猛然と動きはじめたのだ。
「とにかく一日も早く神社を造営させる」
 そう固く心に誓い、以降、社殿の片づけから造営まで、自ら陣頭指揮を執りはじめたのである。神主の装束を着ていても、その頭には、常に落下物防止のための工事用ヘルメットをかぶり、いつしか「ヘルメット宮司」と呼ばれていた。
「神戸市は昭和二十年六月五日、米軍の落とした六百発の焼夷弾による大空襲で焦土となり、神社は丸焦げになってしまいました。残っていたのは、石の鳥居だけです。それを建て直し、造営したのが私の父親でした。そして阪神・淡路大震災でその石の鳥居も倒れた。私はその父親の言葉で”そうや!”と、発想の転換ができた。
 とにかく神社は、その街のコミュニティセンター(共同体の中心)で、街作りの中心なのです。もともと生田神社は、神を守る戸ということで、神戸(かんべ=こうべ)の地名の発祥となっている。神戸の地名の発祥の地が立ち上がってきたら、”生田(神社)さんがこうやって元気になって復興した。我々もやらないかん”と、ひとつの呼び水となって、神戸の街が奮い立つ。復興をとにかくやらなくては、とコロッと考えがかわって、気力が生まれたのです」
 いまも昔も神社は、地域の住民とその家族、地縁血縁者たちの心の支えであり、中心であり続けている。だからこそ、神社の中心にいる宮司自身が復興を使命と感じ、頑張らなければならないのである。
 神祭は、再建開始当時から一日たりとも休まず斎行し続けた。毎年恒例の「祓へ」の祭事である「茅の輪くぐり」もおこなった。一般向けのお祭りも、震災後しばらくして復活した。
 当時のプロ野球オリックス・ブルーウェーブの猿渡敏男社長がキャンプ前の勝利祈願に訪れ、その後、オリックスが優勝したときは、仰木彬監督とイチロー選手も神社に姿を見せた。
 また、神戸市の各種施設が震災の影響の自粛ムードで、イベントを軒並み中止するなか、生田神社だけがオーケストラ演奏など、ほとんどのイベントを受け入れた。実際に境内で「坂本九メドレー」など心にしみる曲を演奏すると、神戸市民は喝采し、大いに沸いた。
 一般的に、人は何か悪いことが起きると暗い気分に陥り、イベントやビジネスが中止されたりする自粛ムードとなりがちである。
 だが、人は苦難や苦境のときにこそ、「祓へ」をはじめとする「神迎えの祭」を執りおこなう必要がある。それは、お互いに助け合う精神のある「祭」によって、人々は勇気づけられ、明日への希望に満ちた活力をもらうことができるからだ。祭が単なるイベントや馬鹿騒ぎなら自粛もよいだろうが、日本の古い祭からは逆に力をもらえるものだ。
 いまにもくずれおちそうだった加藤宮司の心を奮い立たせ、神社を蘇らせた原動力は、ほかならぬ父親という先祖の”伝統”が存在したと同時に、祭による人々の活力の復活、そして発想の転換という「祓へ」の力であったからだろう。
(中略)

祓へと祭で蘇りを果たす

 ところで、拝殿の再建にあたっては、加藤宮司は「拝殿の柱を地震に強い世界一の柱にする」と決意した。その柱は竹中工務店により、地下鉄工事と同じ工法で、神戸製鋼所の鋼を使った「鋼管コンクリート」で建てられ、文字通り「世界最強の柱」が出来上がった。
 石の鳥居は、伊勢神宮から奉納された鳥居へと新たに建て替えられ、ついに平成八年の三月には拝殿を再建し、六月六日には拝殿の竣工奉告祭を斎行するまでに至ったのである。
 社殿が倒壊してから約一年半の早さであった。
「いまもそうですが、地震のあった大変な時期にこそ、日本の良さが世界に見直されるわけです。外国ではすぐに略奪が起きたり、混乱が起きたりするのですが、日本人はこの震災のときに、歯を食いしばって頑張る。そして弱い人を助けてあげようという気持ちが日本国中に沸き起こる。
 そういうひとつの気運がみなぎって、何とか復興して、今度は自分が被災した人を助けてあげる。そこに日本人の美しい心というものがあると思います。
 だから、東日本大震災では、亡くなった方にご冥福をお祈りすると同時に、やはりこういう危機のときこそ、日本人みんなが一丸となって、それをバネにしなければならないと思うのです」
(中略)
 最後に、震災から見事に蘇った生田神社の加藤宮司は、大災害からいかに蘇るか、という日本人の精神性について、こう語ってくれた。
「日本人の生き方は、はじまりがあって終わりがある、という(世界終末論的な)ものではなく、日本人には生きているあいだに、何度も蘇るサイクル、つまり”循環の精神”があると思うのです。
 だから今回のような東日本大震災では、けしてダメだと思わずに、新しい建物を建てることによって、また人心が新しくなり、壊れた建物から新しく何かが生まれる、という前向きで精神的な『蘇り』をすることが大事です。精神的な『蘇り』とは、亡くなった方のためにも、この災害をバネにして、たくましく生きていこうとする強い精神のことです。
 私は、生田神社は『蘇りの神』だと思っています。それは御祭神の稚日女尊が、若(稚)くてみずみずしい太陽の女神であり、生田という地名は”生きた”、”生まれた”、という”再生”の地名でもあるからです。私はそうして、生田神社も父親から引き継いで再び蘇らせることができた。
 やはり、日本人は生きているあいだに、何度でも新しく生まれ変わって、再び生きてゆく、ということが大切じゃないかと思います」
 歴史上、幾度も未曾有の大災害に見舞われてきた日本。人々の心がくじけそうになったとしても、何度でも「蘇ってきた国」なのである。前出の鹿島神宮の祭もそうだが、日本人が勇気をもらい、再浮上や再生の力を秘める祭となり得る「きっかけ」が必要なのだ。
 そのためにも、禍事を祓う力と、その英知が生きている日本の精神性に気づき直すこと。その古くからいまにつながる伝統の精神の復活こそが、いま私たちに試されている。」

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 熊本地震。
 そして伊勢志摩サミット。
 わが国における神社や神道の重要性に日本人自身が気づき直す「蘇り」の契機としたい。
 そして、被災地の神社が1日も早く修理・再建され、住民たちが元の生活を取り戻すことを願う。