攻撃心(抑圧・我慢)です。
 

嫌なことを言われたときに一件落着、解決していたり感情を吐き出せているとスッキリしたかなと感じられますが、くすぶっているものが確実にそこにはあるのにその場では何も言わず、心の中で強い反発心を抱えていると攻撃心を吐き出すことができず終わってしまうので、ずっと臨戦態勢、緊張状態が続くことになります。
それでいてこの「攻撃心」は、適宜吐き出して適切に処理していけないと、やがては自分自身に返ってきてこんなんだから自分は……というような自分責めに繋がってしまいます。
本来的には、攻撃心は言われたその時に出せないとなりません。しかし、現実ではそうもいかないシーンもとても多いですから、吐き出そうにも吐き出せないで終わってしまう場合もたくさんあります。

皮肉、当てこすり、当てつけ、斜に構えた批判的な発言。これらが流れるように口から出てしまう人は「そうでもしないとやり返せない危険な環境を過ごしてきた」か「何かがあったことにより植え付けられた強い恐怖で誤学習した結果」があると考えられます。

直接言い返す(やり返す)と怪我をする可能性があった、自分を受け入れてもらえない・輪に入って馴染めないことによる仲間外れの危機によるもの、等。相手より上に立ちたい、仕返ししてやりたい、自分はそいつよりも勝たなければならない。

つまり、未消化の感情(心の訴え)です。でも、それをまっすぐ出すことは環境が許さないから、ねじ曲がった出力をするしかなくなってしまい、非常にイヤな行為になってしまう。

もっと言えば、そこで吐き出さず、またそんなもの持っていてはいけないと否定的になって"無かったことにする"処理が繰り返されると、「自分のこころが自分でわからない」状態に陥ります。自分で自分の感情を無視し、蓋をして存在を無かったことにする、自分で自分の心を殺してしまうのですから、自分の心がわからなくなるのも当然と言えば当然でしょう。


人間は、何かと理屈を並べ立てて理論武装をし、それがたとえ歪んだものであってもなんとか納得しようとしたがるものです。ふんわりとした宙ぶらりん状態を、人間は不安に感じ嫌うようにできているのでとにかくはっきりさせたがります。それは、自分で自分をそう思い込ませる自己洗脳を強めていくだけだったりしますし、そうしていって"色眼鏡"が強化されてもいきます。
しかし「そうでもしないとならなかった」と言う場合がほとんどで、できればそのような思い込みをしないで済むほうがもちろんよいです。

 

愚痴を吐く心理の裏側には「発散」があります。それも、愚痴の理由や原因となった張本人の前では吐き出すことができなかったもののなれの果てです。

負かしてやりたいのに負かすことができない、やり返せない、でもこの渦巻く悪感情をどうにかしたい。だから関係のない第三者に聞いてもらおう、というものです。

前提に「仕返し」が来るので自分を受け入れてほしい、自分は悪くないと思いたい、となる。だから、聞き手は反論やアドバイスは悪手だ、とも言われるわけですね。

 

大切なのは、「愚痴を言うのは絶対にいけないことか?」にはNOである、という部分です。むしろ、何も吐き出さない、吐き出せないほうが問題です。

心理学的に愚痴を吐くという行為には、カタルシス効果(ネガティブとされる感情の昇華)、アウェアネス効果(話すことで整理される気づき)、バディ効果(独りじゃないという安心感)等があると考えられており、うまく運用していくことができれば健康的な内面の維持も期待できます。

要するに"程度問題"でいて、愚痴だらけの人が周囲からエネルギーを奪う踏み荒らす存在として疎まれるのであり、まったくダメということではないのです。

愚痴を聞いてもらったときに後ろめたさや負い目を感じてしまうのであれば、別のかたちでお礼をしてみるのもよいでしょう。すべてのものごとは「循環」させていくことが肝要になります。

 

 

なんだかわからないけれど人と会ってるとやたらと疲れる、だから愚痴っぽくなってしまうのが止められない。という人はもしかしたら、自身でも気づかない「他人軸」状態に常に陥っているのかもしれません。

 

我慢や抑圧をいつの間にか重ねてしまっている。その先に「愚痴」があります。認めてもらえず奥に押し込められてしまった感情たちのことです。

認めてもらえなかったり受け入れてもらえなかったりしたものは"執着"となり、自分自身を負のスパイラルに叩き落すことにもなってしまいます。

耐えるよりも受け流していくことで、意識におけるウェイトを軽減する。

 

この世のだいたいのことは、ほんとうに「考え方ひとつ」なんです。