やっぱり言語化されてる何かを読んでハッとさせられることで「自分にはこれが必要だったんだ」となるんじゃないかと思う。
人間は言語化(明瞭化)されてないものは掴むことができない、扱うことができないから”自分の中のものを言語化するところから”になるし、その言語化してくれてる読み物を読んだり占いなどのツールを使うことで明らかにすることができたりという補助輪を得ることで、やっとその「自分の中にあるわからなかったもの(言語化済み)」を扱えるようになる。

人間は基本的に「好きか嫌いか」で物事を決めていく感情優位の即物的な刹那主義であると思っていい。それに「一度受け止めてとりあえず自分の中で噛み砕いて吟味してみる」と言うことをせず、ただ嫌だからすぐ全部突っぱねる拒絶する、というのもたくさんいる。自分はそう言う人種は考えが浅くて嫌いだが。そう言う人たちは、相手とすり合わせや解釈の確認を取ると言う考えも持たないし。
経験上、自分の中のものの言語化に常に務めてるような人は、そんな表面的な対処はしない。
食わず嫌いな人間が嫌いである。やってもいないのにやる前から決めつけて動こうとしない人間が嫌いである。やってから文句言え。



どこで書いたか忘れたが、このブログの使い方を割と勘違いされていることがあるし、このブログを続けているうちに「過去の自分はこう言うものを与えて欲しかったんだ」と言う気づきを得たと言う経緯がある。どの大人も、他の誰もが、自分の欲した答えを差し出すことができなかった。そのくせこちらを間違ってるだの頭がおかしいだのお前が悪だのと言って避けたのである、そんな経験が多すぎた。

自分の過去の失敗や傷の清算とコレで誰かを助けることができたらという動機や理念は、何ら特別なことはないありふれたものでしょうよ。

あいつはいいのに自分はダメ、他の人はいいのに自分だけダメ、みたいなのも地雷なんでね。




今現在ひどくメンタルを崩していて誰かのために何かをしてる場合じゃなくなっている。関連するすべてのものが著しく滞っている。

こちらの記事(初投稿記事)を読んでもらえればわかると思うが、「本当にすべて素直な気持ちからのもの」なので、そう言う純粋さに下心の存在を疑われると、刃物で刺されたように傷つき深く深く沈んでしまう。



けれど、世の中は自分が思っているよりもずっとずっと薄情な人間ばかりで、自己保身や損得や利害などで溢れているし、誰もが他人を助けようと思わない。

何が言いたいかと言うと、自分みたいな基本無償の愛を向けるピュアな存在はまず疑われるし理解されないし助けてもらえない。孤独であると言うこと。

与えられたら返さなきゃいけないと言う強迫観念があるから与えてもらうこと自体が怖い、と言う人もいて、大変窮屈だなあと思うし。

自分が傷つき汚れているから純粋なものも純粋なものとして素直に見れないんじゃないかと思うし。

人間は、自分の中にあるのもでしか解釈することができない。自分の中にないものは理解できないから、無理やり自分の中にあるものに当て嵌めようとする。それが事故の原因になると言うのに。

本人に直接確認を取ってもいないのにあれこれと勘繰っても無駄であるのに。


この世に適応できないくらい純粋だからすごく生きづらい人間、と言う生き物がいると言うことはもっと認知されろと思う。