こんにちは!びわおちゃんブログ&アニオタWorld!へようこそ。
今年の夏、映画業界でとんでもない「事件」が起きています。世界が絶賛し、日本アニメの最高技術が結集されたはずの超大作が、まるで誰にも気づかれないまま、嵐のように現れ、そして蜃気楼のようにスクリーンから消えていきました。その名は、映画『ChaO(チャオ)』。
制作期間9年、総作画枚数10万枚超え。世界最高峰の映画祭で賞まで獲ったこの作品が、なぜ日本では「歴史的大爆死」とまで言われるほどの惨敗を喫してしまったのでしょうか?
巷では「人魚姫の呪い」だとか、いやいや「制作陣のおごり」だとか、様々な憶測が飛び交っています。でも、私は思うんです。この事件の根っこには、もっと深く、私たち日本人特有の「ある感覚」が横たわっているんじゃないかって。
今日はこの、あまりにも切なく、そして興味深い『ChaO』大爆死事件の真相を、私なりの視点で徹底的に掘り下げていきたいと思います。これは単なる映画評じゃありません。一本の映画を通して、日本のエンタメの今、そして私たちの心の奥底にある「美意識」の正体を探る、ミステリーツアーの始まりです。
目次
その2:最も根深い呪い「観客の美意識」と「国際評価」の絶望的なズレ
そして、こちらが本丸です。私が『ChaO』の失敗における最大の要因だと考えるもの。それは、日本の観客が持つ独特の美意識、すなわち「カワイイ」文化と、作品が提示したアート性の間に、埋めがたい深い溝があったという事実です。
少し、日本の「カワイイ(Kawaii)」文化について考えてみましょう。
ハローキティ、ポケモン、ゆるキャラ…。日本が生み出し、世界に広まったこの「カワイイ」は、単に「Cute」と訳せる言葉ではありません。それは、キャラクターに対する「庇護欲」「親近感」「愛着」といった感情を喚起させる、非常に高度なデザイン哲学です。

目が大きく、頭身が低く、どこかドジで放っておけない。私たちは、そういったキャラクターに感情移入し、グッズを買い、SNSでシェアし、我が子のように愛でる。これが日本のポップカルチャーの根幹をなす「キャラクター消費」であり、多くの大ヒットアニメもこの文脈の上になりたっています。

さて、ここで『ChaO』のキャラクターデザインを思い出してください。
海外の映画祭で「独創的」「クール」と評されたそのデザインは、日本の「カワイイ」の文法からは、大きく逸脱していました。目は小さく離れていて、唇は薄く、表情もどこか人間離れしている。ネット上では「キモい」「不気味」という言葉が飛び交いましたが、これは単なる悪口ではなく、多くの人が「どう感情移入していいかわからない」という戸惑いの表明だったのです。
つまり、こういうことです。
- 国際映画祭の評価軸:「今まで見たことのない新しい表現か?」「芸術として革新的か?」
- 日本の一般観客の評価軸:「そのキャラクターは”カワイイ”か?」「応援したい、好きになりたいと思えるか?」
『ChaO』は、前者の評価軸では100点満点だったかもしれません。しかし、後者の評価軸では、残念ながら多くの観客の心に響かなかった。むしろ、無意識に根付いた「カワイイ」の基準から外れているがゆえに、「不快」とさえ感じさせてしまった。
これは制作陣の失敗というより、挑戦の結果です。彼らはあえて日本の「カワイイ」の呪縛から逃れ、グローバルなアート市場で戦おうとした。その挑戦はアヌシーでの受賞という形で確かに実を結びました。しかし、その挑戦的なアートは、日本の商業市場という名の分厚い「カワイイの壁」に、無残にも跳ね返されてしまったのです。