お久しぶりです。
やっぱり三日坊主だったね・・・。(正月早々からまったく更新せず、ときはもはや三月・・・。)
あはは(乾いた笑い)。
さて、それはともかく。
近年、労働問題は様々な方面で取り上げられるHOTな話題なわけですが、
労働を提供しているのが「人間」だという前提を抜きに語られる「労働」には、
どうにも違和感がぬぐえない。
(たとえば、「この局面下では待遇はこうならざるを得ない」
「こういう人材が求められている」といったところで、
それを提供する労働力になりたい、と人々が思わなければ、どうしようもない。)
労働を語る上で、絶対に心にとどめておかねばならない、と思うのは、
そもそも、企業が求める「労働力」と、それを提供する「人間」との間には、「断絶」がある、
ということ。
よく、「労働者」や「人材」という言葉をいうけれど、そこで想定される「労働者」や「人材」は、
「こう生きたい」という意思を持ち、様々な事情を抱えている、ひとりひとりの主体ではない。
むしろ、そういった、意思や事情、すなわち、
幼児や老人といった家族、
心惑わし時間をとる恋愛や友人関係、
自己主張や好き嫌い、
などといったものは、「人材」や「労働力」には、「余分なもの」である。
でも、わたしたちは、「歓迎される理想の人材」になるために、生きているわけではない。
そういった「労働力に余分なもの」の多くこそ、「その人をその人たらしめているもの」なのであり、
それらを抜きに、人間は存在し得ない。
多くの人々の実際の職業生活というのは、「余分なものを持たない労働力になれ」という要請と、
「様々な意思や事情を抱えた人間」の欲求との間に繰り広げられる相互関係で作り上げられている。
そして、私が労働研究をしていく上で、自分なりのこだわりがあるとするなら、それは、
「(労働)主体としての人間」、すなわち、余分なものをいっぱい抱えている人間が、
どういう風に、企業からの要請を受け止め、対処しているのかを見ていきたい
ということである。
それは、つまりは、企業がどのように人々に要請を求めるのか、どこを妥協点としつつ、
要請を変化させていくのか、という分析にもつながる。
企業からの要請そのものも、「上司からの要請」「周囲の目」といった、
「人間」を通じてしか発揮されえないからである。