さて
1993年春、一念発起してほぼ手ぶらで上京した畑澤青年は、何度か手紙のやり取りをしただけの元東映の大プロデューサー平山亨の押し掛け弟子になり(ホントにあの頃の行動力というか厚顔無恥はスゴいというか何というか(^_^;)(^_^;))
同氏主宰の企画集団「ミラクルメイカーズ」の一員になるも、「(一流)大学を出てないと東映ではプロデューサーにはなれない」と聞き、まずはいちばんの夢だった「東映ヒーローを創る」を諦め、それならば東映に企画(と金)を提供しているあの日本最大手オモチャ会社(は、やはり大学出てないと入れない)…に企画を提供している「レイアップ」という会社があるのを(その当時勤めていた西武百貨店のオモチャ売り場で)知り、ムリヤリ入社した(長!)。
親には「勘当」されていたので入社の折りの保証人には平山さんと、大脚本家上原正三さんになってもらった(畏れ多い!)
続柄「師弟」と書いてある。
よく入社出来たなぁ…。
それから数年、駒形の大オモチャ会社の傀儡として(笑)馬車馬のように働いた。
ちょっとアテが外れたのはレイアップは東映特撮ヒーローにはほぼ関わっておらず、専ら『』セーラー○ーン』や『ガン○ム』 と戦っていた。
最も僕が担当してたのは『セー○ームーン』は『S』以降、『ガ○ダム』は『X』の頃だから、両シリーズの黄昏の頃だったけど…。
『セーラームー○』の後番組を企画しろ!と言われ、いくつもいくつもいくつもいくつもいくつも出した企画の残骸が、後々の作品『ヴァニーナイツ』の原形になった事はここだけの秘密(笑)。
そして何故か後番組が急転直下で『キューティーハニーF』になったのは周知の通り。
一方、平山亨の『ミラクルメイカーズ』では、ピープロ作品のリメイク(『ザボーガー』ではないよ)企画に奔走していた。
何を隠そう(隠しても意味ない)東映の平山P、ピープロの鷺巣社長、そして円谷アキラ(漢字が出ない)の三者を引き合わせたのは俺である…
ではあったが…未だに企画が実現せず、鷺巣先生は鬼籍に入られてしまった。
そんな折り…
1997年の晩秋…であったか…
OVA『クイーンエメラルダス』(後に『ハイペリオン』でお世話になるマクザム製作)等でお世話になった円谷映像のIプロデューサーに同社作品の企画依頼を受ける。
おおっ!いいところなのに文字数限界!
次回後編(笑)に続く