永遠の命を失うことを恐れなくなる | 元キリスト教信者の告白・クリスチャンやめました。

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長い間信仰生活を続けていましたが、不信感が積もり、とうとう耐えきれなくなってキリスト教をやめました。

私はつくづく信仰とは縁の遠い普通の人間なんだと思います。

 

霊のわざや、奇跡の現象について、全く感知しないのです。

 

イエスキリストに会ったこともなければ、そういった証言も漠然と曖昧に聞こえてしまう。

 

キリストにすがらなければ、生きていけないとか、

 

普通な人間として聞いたら、神を信仰する人の話は、

 

やっぱり、まとはずれで、異様に思えてしまう。

 

 

 

自分でも信仰において、冷めた人間だと思います。

 

いくら洗礼を受けているとはいえ、

 

こういう信仰に冷え切った人間と一緒にいたら、

 

神の救いとは程遠くなってしまうので、

 

相手の信仰の為にも、教会から距離を置いたほうがいいのかもしれないと

 

思うようになっていたのです。

 

 

私は、そうして、クリスチャンのコミュニティから離れることを選んだのですが、

 

それでいて、以前より不便を感じたり、不幸を感じたりするかというと、

 

そんなことはなくて、ただ、普通の生活になるだけなのですね。

 

礼拝したり、祈りの時間を持たなくても、

 

以前の心の状態に、変わりがないわけです。

 

 

信仰を持っている人たちと唯一違うところと言えば、

 

永遠の命を失うことによる、死を恐れていないということです。

 

 

 

クリスチャンとは、言いかえると、自分達は神に選ばれて、

 

永遠の命を得る資格があると、

 

疑いを持たない人たちのことを言う、、と

 

理由はたくさんありますが、

 

だから、彼らはクリスチャンという肩書を持ちたがるし、

 

見えなくても、傍にいる(気がする)イエスキリストに向けて

 

礼拝と、信仰をささげます。

 

 

 

ただ、今言えることなのですが、この過程を経て、

 

自らその関係を断つことで、

 

永遠の命とは何か、信仰とは、何なのかということが、

 

離れることによって、気が付くのですね。

 

永遠の命とは何か、それを知るのに、

 

信仰を失っても、「人は死ぬまで生きる」この事実は変わらないのです。

 

 

 

 

 

 

 

信仰を失って、

 

得たもの(気づき)で

 

私は

 

生きる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どこかで聞いたような

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。

 

しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

 

自分のいのちを愛する者はそれを失い、

 

この世で自分のいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。