「嘘」が生きる意味を与えることもある | 元キリスト教信者の告白・クリスチャンやめました。

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長い間信仰生活を続けていましたが、不信感が積もり、とうとう耐えきれなくなってキリスト教をやめました。

「嘘も方便」ということわざが日本にあって、

嘘をつくことが良いとされることもある。という意味なのですが、私たちは、大人になると、何が嘘で、何が真実なのか、

分別をもって見分けることが出来るようになるのです。

 

例えば、子供の時に、謎に枕元にプレゼントを置いていくサンタクロースの正体だったり、重い病気にかかっていたのに、痛みを忘れるくらいの周りの慰めや励ましの言葉があったりします。

 

時に、真実を知るよりも、真実を隠して語るほうが、誰かにとって生きる糧になる場合があります。言葉による働きかけというのは、そのような効果を生み出します。

 

私は、キリスト教という宗教のなかで育ってきて、礼拝したり、賛美したり、神に祈ったり、献金したり、神を愛するように隣人を愛したり、いつも喜んでいなさいという言葉を守ったり、これが、何のために、誰のためにそのようにしていたのかということを、

大人になるにつれて、小さい頃から、当たり前のようにしていたことを、なぜ、そうしなければならないのか、考えるようになっていたのです。

 

そして、自分が全て失って、信仰も失って、信仰する神という対象も失って、この時、この瞬間のために、自分は祈って礼拝してきたということに気が付きます。