(B.O.C.理念)
ここで一つ皆さんに深く考えて頂きたい事があります。
父親が貧しさのあまり飢えに耐え切れずにいる子供の為に、思い余って窃盗を働いてしまったとします。
さて、果たしてこの父親は、悪人なのでしょうか善人なのでしょうか?
窃盗の被害者からみれば間違いなく悪人でしょう。また社会的にみても悪人と判断されるでしょう。しかし、この父親の子供から見ればどうでしょう?子供にしてみれば優しい一人の父親である事に変わりはないと私は思います。客観的に言えば悪人ではありますが、この子供の主観で言えば優しい父親です。
この視点の違いが西洋哲学と仏法の違いです。
と言われても全然ピンとこないでしょうから、もう少し分るようにお話すると、哲学は実在主義であって物事の実態、本質を追求します。このケースで言うなら、社会倫理に反した行動を取った父親は、結果として社会的処罰を受けるといった実態をとって父親の反社会的行為を戒めます。
それに対し仏法の捕らえ方は、物事には実態も本質もない(無我無自称)と説きます。このケースで言えば、被害者から見たらこの父親は悪人だが子供から見たら優しい父親。・・・という事は、この父親の実態また本質は把握しようが無い。これは以前にも書きました、モノに価値が有るのではなく、それに人がどうかかわるかによって価値が生じるといった考えと同じです。この考え方は間違ってはいませんが、物事には実態も本質もないのだったら、なにがどうなるの? と言いたくなります。
しかし、哲学と仏法では物事を捉える視点が全く違うという事、アプローチが全く違うという事をまずは理解して頂きたいのです。例えば、100人の人が集まれば皆それぞれ色んな事を話し出します。話の内容は千差万別で、誰一人とっても全く同じようには話しません。九州弁で喋る人もいれば関西弁で喋る人も居るでしょう。しかし、人が口を使って喋っているという点に於いては皆一様に共通しています。客観的というのは誰がしてもそうなる、誰にでも当てはまる、といった捕らえ方で、どうして人は口で喋るのか、どのような構造になっているのか、といった客観的な角度から真実を追究していくのが科学であり医学であり哲学です。
それに対し、一人一人が話している内容はというと、これはもうその人の主観で話している訳でして、そういった主観の部分に於いては科学も医学も哲学すらも解釈に及びません。その主観の部分を詳しく説いたのが仏法なのです。
宇宙の中心はどこだと思いますか? と問われて自分ですと答えた人は正解です。自分以外に基準となりえる位置はないでしょう。あなたが生きてきた人生は、あなたが体験してきた体験世界であってあなたの主観の世界なのです。だからお釈迦様はその主観の世界を仏法として説き現したのです。その主観の世界をどう説き現したのかは、、、、めんどいので止めときます^^
ただ、
相手の立場を理解するという事は、その人の主観の世界に自分の視点を移動させて考えて見るという事が大事だと言いたかっただけです。
現代社会は、あまりにも客観的に物事を処理し過ぎてはいませんか?
客観的にみて(誰から見ても)人の道に反した行為はしてはいけません。それは許されない行為でしょう。しかし主観的に見たら許せる行為もあります。