憂さもつらさも腹立たしさも、心ひとつのおきどころ
大空にすむ月の光(かげ)も、
見る者の心によって、
楽しくも悲しくも腹立たしくも眺められるものです。
自分の身辺に起こる凡ての出来事の中に
神様の有り難い
御教(みおしえ)、御諭(みさとし)の心を
味わい知って、
感謝と反省の心で眺めれば、
身も心も朗(ほが)らかになり、
禍も自(おの)ずから転じて
幸いとなる時が遠からず訪れるでしょう。
(神社のおみくじの神の教より)
私なりの解釈
このおみくじでは、月の光の「光」に「かげ」と、ふりがながふってありました。
この点、意味がありそうです。
「月かげ」「人影」「面影」など「かげ」は極めて日本的な表現で、単なる人や物に日が当たって出来る黒い影ではない。
月の光(ひかり)を、月の「かげ」とすると、どこかおぼろげな気配となる。
光なのに気づかれていないような。
その前の大空に「すむ」も、ひらがなで、私は「澄む」「清む」と清らかなイメージで読み取りましたが、もしかしたら潜んで生息している「棲む」なのかもしれません。
しかし「心ひとつのおきどころ」というのは知ってはいても現実には難しいこともあると思います。
例えば大震災があって、家も全壊し、身近な人々も失ったり、停電や断水が長く続いているとして、それに対して神様の有り難い御教え・御諭と味わい知って『ありがとう』って感謝は出来ないだろうし、身近な人々が亡くなれば悲しいし憂う。
救助はまだか、インフラ復旧はまだかと、つらさや腹立たしさを感じるのが普通じゃないだろうか。
それに反省の心で眺めれば…と言われたところで、反省しようにも自然災害って、罪も無い幼子や、いつも神仏に仕えている神職や僧侶でさえ被災するのだから、もう、どうにも…。
ですから私は、心ひとつのおきどころで、身も心も朗らかになるのは、全ての出来事じゃないと思いました。