神社には、よく鏡が祀られていて、「かがみ(鏡)」から「が(我)」を取ると「かみ(神)」となると言われている。
これは、鏡に映った自分の中にこそ、神、信仰、目指すべきものがあると伝えているという意味のようです。
私たちの心中に宿る「いのち」「心神」「天照大御神」を大切にし、
我欲によってくらまさないよう、常に努力しなければならないと考えることが、古くからの日本人の素直な心です。
神道は己自身に自らの在り方を問い、自分で答えを見つけて行こうとするもの。
自分の外にあって、客観的対象として知識や理論で考えるものでなく、
自分のこの「いのち」が祖先の「いのち」に連なっており、
自分自身が今、天地一貫の「いのち」の中に生かされている事実に気づく事。
相手を変えるのではないのです。
対象に囚われている間は、全くダメです。
二元の世界だからです。
自分自身が滅びない「いのち」とひとつになるのです。
元々私たちは滅びない「いのち」そのものなのです。
不安、不信、不足、不満の異心(ことごころ)を祓って祓って、天地一貫の「いのち」に復帰することで歓喜の世界が現れるのです。
《参考書籍》
『全部わかる神社ガイド』 監修:神田神社禰宜 岸川雅範
『時代の大転換点』これからの日本人としての心構え 著者:小野善一郎渋川八幡宮禰宜、公益財団法人日本文化興隆財団講師
そしてよく神道には教義、教典も無いと言われている。
しかしこの点について、私は今、ちょっと違う見方をしている。
以前は『そうなんだ』と聞いていたが、神社検定の勉強を進めていくと、
神道にも「神典」「神経(しんきょう)」「経典」「聖典」「教典」「神書」「古典」「皇典」「国典」「かみのふみ」などと呼ばれる存在があったから。
神道の場合は、神道信仰の中心・原拠となる典籍を総称していたのだ。
神典
本居宣長は、『神道大辞典』で「神典」=「神道の聖典」と定義したうえで、
神典を「かみのみふみ」と訓じ『古事記』『日本書紀』などの古典を指しているが、神道の経典と言う意味においては、
『古事記』『日本書紀』『先代旧事本紀』『古語拾遺』「祝詞」「宣命」『律令格式』『万葉集』『風土記』『新撰姓氏録』などの古典を広く神典として称すべきだとして解説している。
(神社のいろは要語集 宗教編より)
そんな訳で、たまに「神社では願い事をせず、感謝だけ神様に伝える」としている人もいますが、少し違っている気がします。
生かされている事への感謝は大事ですが、願い事は、古代天皇も疫病終息やら五穀豊穣、戦勝祈願などをしてきた歴史があり、今上天皇陛下だって、皇室祭祀で我が国の諸産業の発展、国民の安寧など祈願しているそうですから。