今日は以前書いた三社託宣を、もっと分かりやすく現代語訳してみたいと思います。
八幡大菩薩 清浄
鉄丸を食べることになっても、心が穢れた人のものは受け取らない。
銅を溶かす焔の上に座ることになっても、心の濁った人の処へは近づかない。
天照皇大神宮 正直
悪だくみは目の前の利潤があっても、必ず神によって明らかにされ罰に当たる。
正直者は一旦は頑固で融通が利かないと言われても、ついには日月(神)の恩情をもらい受ける。(或いは、日月の旛がシンボルの皇祖神の神宮が、正直を通した事で非難を受けた者を憐れんで分かってくださるものだ。)
春日大明神 慈悲
何年も立派に栄えて不幸が無いと言えども(あるいは裕福で高位だとしても)
邪(よこしま)な見方をする家には近づかない。
度重なる不幸があると言えども(あるいは貧しくて社会的地位が低いとしても)
慈悲の心を持つ人の家に赴(おもむ)くように。
余談ですが
私個人の感想としては…なんて言うか、八幡様の宣託(お告げ)は例えが激しいので、かなり強く心の穢れて濁った人たちを全力で拒否して遠ざかりなさい!って印象です。
春日様の宣託では、「千日の注連」と対比する「重服深厚」をどう解釈するか?が問題でした。
ネット上に他の方が三社託宣を現代語に解釈しているのも目にしましたが、注連=注連縄(しめなわ)目出度い事のシンボルとして捉え、千日=しばらく、不幸が無いとしていまして、対して重服は重複じゃなくて服なので、服喪の服として不幸続きの家としてらっしゃいました。
でも私は、服は服従の服じゃないかと考えたのです。
注連は今では家の神棚や神社の鳥居、拝殿前など神域と俗界を区切る結界でありますが、この場合は朝廷で神事などを司る先祖代々高貴な家の意味じゃないかと思いました。
一言でまとめると、「付き合う人は選ぼう」ってことかな。
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