三社託宣の信仰/伊勢「正直」・八幡「清浄」・春日「慈悲」 | 心の鏡

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このブログは主に神道について書いています。ブログタイトルの心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

 

三社託宣の信仰

三社託宣は「さんじゃたくせん」又は「さんしゃたくせん」とも読みますが、その信仰とは、中世から近世にかけて広まった、

天照皇太神宮と八幡大菩薩、春日大明神の託宣のことで、

これを記した掛け軸・掛物などが信仰の対象として流布しました。

 

 

 

 

 

正直・清浄・慈悲

三社託宣の託宣文は時代によって多少変わりますが内容は同じです。

八幡神は清浄、天照皇大神宮(伊勢)は正直、春日大明神は慈悲の徳目を書かれているそうです。

縦書きで、上部中央に天照皇太神宮又は伊勢、右に八幡大菩薩又は八幡、左に春日大明神または春日の神号が書かれて、その下にそれぞれの託宣文が書かれています。

神号の代わりに図像が描かれているものも多くあります。

 

託宣文の内容

 

では、託宣文には何と書かれているのか?

原文は漢文で漢字変換しづらい部分もあるので、現代文に近づけて直して書くと…

 

 

八幡大菩薩 

 

鉄丸を食すといえども、心穢れたる人のものを受けず、

銅焔に坐すといえども、心濁りたる人の処に到らず 

 

 

天照皇太神宮

 

謀計は眼前の利潤たりといえども、必ず神明の罰に当たる

正直は一旦の依怙に非ずといえども、ついには日月の憐みをこうむる

 

 

春日大明神

 

千日の注連縄を曳くといえども、邪見の家には到らず、

重複深厚たりといえども、慈悲の家に赴くべし

 

こうした正直・清浄・慈悲といった心構えが強調されるようになったのは鎌倉時代後期からのこととされています。

 

 

正直者の頭に住む神様は

三社託宣では正直は伊勢=天照皇太神宮でしたが、

『八幡愚童訓』には八幡の神は「正直者の頭を住みかとす」とあり、

『東大寺八幡縁起』には「正直者の首の上に住むなり」とあるそうです。

 

敬神の心構えが重視された

戦国時代の相模国の北条早雲が定めたと伝えられる『早雲寺殿二十一箇条』にも

「たとひ祈らずとも心持あらば、神明の加護これあるべし、祈るとも心曲がらば、天道に放され申さんとも慎むべし」とあります。

つまり、敬神の心構えが重視されるようになってきたのです。

この心構えは伊勢神道にも大きな影響を与えました。

 

なぜ伊勢・八幡・春日の三神だったか?

元々は「三社」といえば、伊勢、石清水、賀茂でした。

これには院政期に現れた春日大社をめぐる神道説が影響しているとも言われます。

それは天児屋根命(あめのこやねのみこと)の子孫(藤原氏)を、

代々、天照大神の子孫の「輔弼(ほひつ)の臣」とする幽契(契約)を、

神代において天照大神と天児屋根命が結んだとするものです。

要するに天皇の補佐役を世襲で行うのが藤原氏で、それは神代から決まっていたということです。

また、伊勢・八幡を天皇の「宗廟」「第二の宗廟」とするのに対して、

春日を「社稷(しゃしょく)第一の神」つまり朝廷が崇敬する第一の神としたのです。

こうして皇室=伊勢・公家=春日・武家=八幡と対応した三社が特別視されるようになったとされています。

 

 

やがて全国的に

三社託宣の信仰は、公家から武家へと波及し、託宣和歌など、より分かりやすい注釈書が出回って、一般庶民にもひろがっていきました。

そして庶民向けに数多くの掛け軸や刷り物が作成され、三社へ灯篭を奉納する講が組織されるなど、近世には全国的な信仰となって行きました。

 

 

神社余談ですが、ご祭神が天照大神と八幡神(応神天皇・品陀別命)と天児屋根命の3柱の神社もあります。

私も行った事のある東京都品川区の下神明天祖神社や上神明天祖神社(蛇窪神社)もそうですが、そういうわけだったんですね。

 

 

【追記】新しく、現代語訳もしてみました。どうぞご覧ください。

 

 
さらに、YouTubeにも作成してみました。どうぞご覧ください。