随神(かんながら)の道 | 心の鏡

心の鏡

天の霊妙不可思議な法則、神道について書いているブログ。心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

 

 随神(かんながら)の道

かんながらの道とは、神道的あるいは皇道的思想の最も純粋な表現として考えられている語。

天皇の思惟、行動、特に国家統治に関する神聖性を示す「神ながら」という副詞的古語が

近世の末に神道思想が高揚するにつれて「神ながらの道」あるいは「惟神の大道」として盛んに使用されるようになった。

「かみながらも」「かむがら」という語もあるが、ほぼ同義。

 

  古典では随神とも

 

また、古典では「神ながら」という語を「随在天神」あるいは「随神」「随在神」とも書き表わしている。

 

  「神ながら」の語義

 

「神ながら」の語義については、

「神の御心のまにまに」

「神そのままに」

「神でおわしますから」

といった意味に解されている。

 

 あるいは、元々「神のがら」(神のから)という語が転じ、

その「がら」「から」は「間」の意味とも解釈されていて、

この「がら」は事物の本質を表現する意味と考えられる。

「国柄」「土地柄」「家柄」「人柄」「事柄」の「がら」と同じ意味である。

 

※ここから先、引用させていただいている『神社のいろは要語集 宗教編』では、

平安時代の写本である現存の国宝『日本書紀』北野本を重要文献として、そこにおそらく卜部(うらべ)家関係者者が施したものと推定される細註(註釈)も含めての話に進んでいきますが、かなり専門的で漢文入りの長文なので、私には要約するのも難しく、申し訳ありませんが一部だけ紹介したいと思います。いろいろご不明な点は、きっと私にも答えられないでしょうから(なんせその国宝『日本書紀』北野本を手に取って読んで研究したこともないもので)こちらの本をお読みになって下さい。

 

 

 

  『日本書紀』孝徳天皇紀から「惟神」

「神ながら」という訓にあてられた漢字は『日本書紀』の「孝徳天皇紀」大化3年4月条に見える詔勅のうちの「惟神」の二字。以降の古文献にも見え、特に『続日本紀』の宣命と『万葉集』とにそれぞれ20カ所ほど出ている。

主に天皇・「現御神」(あきつの御神、明御神)、

一部では尊貴な神について用いられている。

そして平安期においてその前者の用例が消え、もっぱら後者に限られてくる。

 

  惟神の読み「これかみ」「ただかみ」にすべき説

そして幕末以来、今日に至るまで「惟神の大道」あるいは「惟神道」などの語を用いる例が多く、それを「カムナガラノミチ」とも読んでいる。

 この「惟神」についてはカムナガラと読むべきでなく、

「これかみ」や「ただかみ」あるいは「ああかみ」と読むべきとする説もある。

仮に惟神をカムナガラあるいはカミナガラモと読むとすれば、それはいずれの語にかかる副詞であるのかという疑問も起こる。

これは「ことよさせき」にかかる語と見るのが自然であろう。

そうすると、この惟神は皇祖・天照大神を意味し、皇祖が皇孫(あがみこ)に日本国家の統治を言依(ことよさ)せられたと理解されよう。

惟(これ)の字は国語で「これ」「ただ」と純粋性・絶対性を意味する。

 

※…という説もあったようですが、現代でこの説を主張しているのは私は聞いた事がありません。

 

  随在天神(あめにましますかみのまにまに)随神(かむながら)

天皇について「神ながら」という場合は、古典で

「随在天神」=天(あめ)に在(ましま)す神の随(まにま)に 

「随神」=カムナガラ

と読ませているように、神、神道に随(したが)って、それ自体本来神性を具有するという意をもって、カムナガラの語を註釈したものであろう。

 

  「神ながら」の気持ち

時代が下るにつれ、種々の気持ちを表す言葉として一般の間にも使われるようになっていく。

①なんとなく神聖な、神々しい、もったいない気持ちを基調として

②自然で癖が無いような形容

③自然で大らかな様子

④無理のない、素直なこと

⑤古めかしくて気高い姿

⑥何となく日本的なものという印象、事柄の推移

といった意味合いでの使い方など。

 

  私の感想

この「かんながら」の意味については、神道関係者のブログ・コラムなどでも解釈されていて、今の時代は、広く様々な人たちが各々が自らに問うべき「惟神」なのではないかと思いました。