習俗となった宗教行事の終焉 | 心の鏡

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天の霊妙不可思議な法則、神道について書いているブログ。心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

 

 習俗となった宗教行事の終焉

7月、8月の半ばはお盆、盂蘭盆会があるので、例年、この時期は、お盆・墓参り用品やお供え菓子などがスーパーマーケットでも目立つように陳列されている。

お盆に亡くなった人が家に帰ってくるって、初めて聞いた時は『なんだそりゃ?』と思いましたよ。おばけくん笑い泣き

まあ今の時代に本気で思う人もいないだろうけど、昔からの習俗で定着したものだから、寺院墓地と仏壇を先代から継承した家は、精霊棚(盆棚)設えたりしないと親戚が来て文句言うだろうし、菩提寺の方も檀家にお知らせして棚経かお堂に位牌を持参するかの選択を聞いたりするので、そういう宗教団体が作り上げた坊さんの食い扶持の為の集金システムを、科学が未発達な頃からファンタジーで「説明」して、宗教の役割を果たしてきたのを、今もって続けている。

 

始末の悪い事には、従来宗教だって自分が選んで入信した宗教じゃないのに、生まれた時から入っている人もいるのに、それを「宗教2世」と新興宗教のように可哀そうとは世間では考えてない人も少なくないように感じる。

 

既婚女性では嫁ぎ先が自分の信仰したい宗教じゃないとしても、日本の墓は家単位の為、墓参りやら四十九日に回忌法要などで跡継ぎの嫁はタダ働きさせられている。

そして大人しく従ってれば親戚は嫁に介護から何から嫌な事は押し付け、迷惑を受けた挙句、夫の親が死んだら死んだで、小姑が嫁の「葬式での態度が悪い」だとか、いちいち嫁に自分の大きな喪失体験のあとの怒りの矛先を向けて虐めてきやがる。

仏事についても嫁に出た後約60年以上も経つのに出しゃばり、回忌法要も強要してきてマウント取り。『三つ子の魂百までも』とはよく言ったもので、子供の頃親元で長子として生まれ、ちやほやされていたから、年老いても俺様思考。

たかが狭い地域内で一応由緒ある家柄で親からも恩恵を受けて来て親にはとても感謝していたけど、実の子供に対しては面倒見が悪く同居してくれている長男の文句を言う午未天中殺だ。どうせ次男の方は嫁と別に家を持っていて、嫁は今時のバリキャリだから、ずっと専業主婦の姑とは合わないし、「私は良い所の出だったんだよ!」と威張っている姑に反感もっていたので、老後の世話なんか手厚く見ないだろう。そうしたら同居している長男に頼る以外ないのに大事にしない。

過去の栄光という自分の努力で得たものでもない、単なる先祖からの家系の功徳・恩恵の終わる午未天中殺の人の例だが、これまでが恵まれすぎて親や有力者の親戚ら目上の人々が死んで、普通の運勢になっただけなのに、それに対応できずに存在価値失って親・親戚たちの死後も苦しみあがいている。因果応報だな。

 

長男(跡取り)の嫁は、そうした抑圧や嫁いびりや葬儀や法事の役目を大人しく疑問持たずにこなすことが、「先祖供養は功徳を積む」だの騙され丸め込まれて、仏教なんぞは死後の世界で良い世界に往生できるだの言うが、

女人は往生できないルールや酒飲んだら戒律やぶりであの世の良いランクに行けないルールがあったはず。

第一、死んだ後の幸せなんて確認しようがないし、生きているうちの幸せをつぶされ、嫁ぎ先の先祖供養が本当は骨折り損のくたびれ儲けだという事に目覚めねば。

 

しかし従来仏教だと、江戸時代の寺請け制度から家単位で親・先祖からの墓を継承している人もいて離壇もしづらい。

墓の移転で離壇するのに何百万円と離壇料を請求されたというケースも聞いている。

取りあえず疫病が流行ってお盆がない時はよかった。

でも、その自粛ムードが緩んで、また施餓鬼会だ盂蘭盆だ、春秋の彼岸だ、回忌法要だと呼びもしないのに押しかけて来て、もう仏前も持ってこないことにするとわざわざ宣言してきた。あの何度もあった無言電話も誰だか見当がつくというもの。

またお盆も呼んでも無いのにうちに来て私の言葉の上げ足を取ってにやりと笑うだろうよ、あの絶壁頭。いつまでも親を亡くしてお寂しい事で、お可哀そうに、へっ。でも実家にでかい面して来ては人にマウント取って意地悪してきた事の報いだからね。

 

最近は、お坊さんもyoutubeで説法している方々も増えてきた。

それでちょっと視聴してみると、お盆の由来やら施餓鬼会の解説など仏教のお話の途中で、今時のスピリチュアルに合わせたのか?「波動が上がる」だの言いだして、

『いや、そこまでスピリチュアルに寄せないでも、仏教なんだから功徳があるとか徳を積むとか言えばいいのに、衰退しているから必死だな。』と思った。

 

施餓鬼会は、餓鬼になるような生前の行いをしたのが悪いので自業自得だ。

それを説法聞いたり読経などして無縁仏も救うことで功徳を得るとか何とかいうのは、確かめようのないファンタジー設定で、ただの卒塔婆供養代集金のための口実である。

日本の仏教界も檀家の減少により、有名な観光地のお寺はともかく、田舎の過疎地では、檀家のお布施や護寺費だけではとてもじゃないけど生計がたてられないので、平日はどこかで勤めていて、たまに葬儀・法事があれば僧侶の役割を担うということもあるようだ。

そして廃寺・合併も増えているそうだ。

また、霊感商法ほど高額じゃないけど、色々な御守やらブレスレット・ネックレスなども売り出したり、写経教室やらヨガ教室、施餓鬼会、座禅、精進料理、カフェ、身の上相談、占いなどもしていたり。

お寺のお墓の販売も、合祀墓、永代供養墓など継承者不要のお墓を整備するのもよく見られるようになった。

 

神社の神主さん(神職)も、やはり参拝客の多い神社や地鎮祭を請け負う事が多い神社は常駐の神職がいるが、それ以外の小さな神社や過疎地では一人の宮司が10社以上を兼務している事もあり、氏子も減少しているので、建物を解体するにも多額のお金がかかるが、それも出来ずに神社が荒廃することもある。

思うに神葬祭や神道の霊園・お墓が少ない。

大学も仏教系の大学数の方が多い。

神道系の私立の幼・小・中・高校も少ない気がする。

 

これまでの習俗となった宗教行事も、今後、親子間でも信教の自由が守られるようになる流れと非婚化・多死社会の寺社の廃絶によって終焉を迎えるだろう。

仏教も諸行無常、とっくの昔に末法の世だったし。

それを見届ける前に私自身が終わるだろうけどね。