都と帝王と国を護る神々【3】賀茂社/松尾社/鹿島社/香取社 | 心の鏡

心の鏡

天の霊妙不可思議な法則、神道について書いているブログ。心の鏡とは内在神を表し、神社のおみくじの神の教に「神様の御光が我が心の鏡に映るその時、凡ての心の曇り、心の闇は晴れゆきて、広き明き御恵みを授かる事が叶う」とあったところから命名しました。

 

賀茂社

 賀茂社は平安時代から明治に到り東京に都が遷都するまでの長きに渡って皇城鎮護の神社として朝廷より特に篤い崇敬を受けました。

 

第52代・嵯峨天皇の即位後の弘仁元年(810年)に

※「薬子(くすこ)の変」が起きた時も、天皇は乱の鎮定を賀茂社に祈願されます。

乱の鎮定後、嵯峨天皇は神宮の例にならって斎院を設置し、未婚の皇女を斎王として祭祀に奉仕せしめました。

神宮の斎王と区別する為「賀茂斎王」とも呼ばれました。

斎院とは斎王の居所を意味しましたが、賀茂斎王をさす言葉となります。

原則的に天皇の御代替わりの時に卜定(占い)によって決められ、2年の潔斎を経て3年目の4月に斎院(紫野院)に入りました。そして忌詞(いみことば)を用いるなど不浄や仏事を厳しく避ける生活をしながら院内での祭事を行い、賀茂社には祭りの時だけ参向し神事に奉仕されました。

嵯峨天皇皇女である有智子(うちこ)内親王を初代として35人が奉仕されましたが、13世紀、土御門天皇の御代を最後に廃絶します。

斎王の賀茂社参向に先立っては賀茂川で禊を行いましたが、その道中は官人を多く従えた行列を成したので、見物人も多く、文学作品にも取り上げられました。

現在の賀茂祭(葵祭)には斎院になぞらえた斎王代が行列の中心をなし、古の姿を偲ぶことができます。

 

 

※薬子の変とは?

第51代・平城天皇は病気の為、弟の嵯峨天皇に譲位され上皇となりましたが、寵愛した藤原薬子(くすこ)と薬子の兄・仲成らと共に政権奪回を目指して平城遷都の命を出されたのです。

嵯峨天皇は迅速に対処され、上皇は出家し、藤原薬子は自殺、藤原仲成は射殺されてしまいました。

この事件の際に天皇の命令を速やかに太政官組織に伝えるために、秘書官長として蔵人頭(くろうどのとう)が設けられました。その役所が蔵人所で、属する蔵人は宮廷で重要な役割を果たすようになります。

また、平安京内の警察にあたる検非違使(けびいし)が設けられ、京の治安を担う重要な職となっていきました。

 

 

松尾社

松尾社へも貞観8年(866年)に正一位が贈られました。

 

という訳で平安京の東西に位置する賀茂社と松尾社は、

「東の厳神、西の猛霊」とも並び称され、ともに都を守護する神として尊崇されました。

 

 

鹿島社 香取社

また常陸国の鹿島社(鹿島神宮)と下総国の香取社(香取神宮)は、東北の玄関口に位置し、崇敬されました。

そして朝廷の東北平定に伴い東北各地に勧請されて行きました。

 

との事です。

『神社のいろは・続』より