江戸時代の庶民と神社
江戸時代の総人口の8割以上は農民が占めていました。
中世の農村では個々の「家」は家父長的な大家族のもとにまとまっていましたが、
江戸時代になると農家でも「分家」といった概念が定着していきます。
社会の安定を背景に農業技術が発展し生産力が上がっていくと、分家は本家からの独立性を強め、各々の「家意識」を持つようになっていった訳です。
個々の「家」は祖先があって成立します。
そうしたことから祖先の祭祀も個々の家を単位として行われるようになっていきました。
年中行事の定着/村の鎮守神社の神職
また、この時期、小正月やお盆などの多様な年中行事も定着して行きました。
現在にも繋がる、五節句があります。1月7日の七草がゆは人日(じんじつ)のお祝い、3月3日の桃の節句、5月5日の端午の節句、7月7日が七夕、9月9日が重陽は菊の節句とも言われて、江戸時代に五節句として制度化すると諸大名が登城してお祝いを言上することが定例化されました。
七五三などの子供の成長を祝う行事が盛大に行われるようになったのもこのころからと言われています。
農村の社会的・経済的安定は、村の鎮守の祭祀にも変化をもたらし、新たに「神職」として専門的に祭祀を担うものも登場して行きました。
都市や城下町の繁栄、文化の発展
江戸や京都、大阪といった都市や城下町もおおいに繁栄していきました。
町民たちも豊かになって文化に携わる余裕が生まれていきました。
江戸文化の発展です。
神道講釈
17世紀後半には、一般庶民に向けての神道の講義『神道講釈』が行われるようになりました。
その始まりは中世以降の勧進聖(ひじり)や僧侶による辻説法、琵琶法師などによる『平家物語』や『太平記』語りなどによるとも言われています。
なかには増穂残口(ますほざんこう)の『風流講釈』などと呼ばれて大流行したものもあり、これらは後に「通俗神道書」と呼ばれました。
この神道講釈は講談や落語にも発展していきます。
大規模な祭礼
都市の発達は、大規模な祭礼も成立させました。
日枝神社の山王祭、根津神社の根津祭、神田神社の神田祭など江戸の祭礼では、
風流(ふりゅう/華美な装飾)をこらした山車や屋台、行列などが繰り出されました。
これらは天下祭や御用祭、上覧祭などの名で呼ばれました。
それは祭りの行列が江戸城に入って将軍の上覧を受け、幕府の援助と規制のもとに行われたことによります。
他にも富岡八幡宮の深川祭、浅草神社(浅草寺)の三社祭なども盛大を極め、山王祭と神田祭にいずれかを加えて江戸三大祭りと呼ばれてます。
(…って、いずれかじゃなくて二つとも加えて江戸四大祭りじゃだめなんかい?)
このような大規模な祭礼は関東近県を中心とした多くの城下町の祭礼様式に影響を与え、京都の祇園祭と共に全国各地の祭礼に大きな影響を与えました。