天下人と神
それでは今回から戦国時代を経て天下泰平の世が訪れた近世のころの神道の歴史を書き始めます。
戦乱で荒廃した社寺の復興
戦国時代、全国の多くの神社は御成敗式目以来の伝統に基づいて、
在地の領主から庇護を受ける一方で、社領地を失ったり、社殿が戦火によって焼失するなどの被害も受けました。
寺院も同じで、敵の侵略に対抗して武装し、地元の戦国大名に加勢して自衛することもありました。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康とも天下人として、神宮式年遷宮の再興の為に経済的援助を行いました。
では彼ら天下人たちの神祇への考え方とはどういうものだったのでしょうか?
織田信長
氏神である越前国(福井県丹生郡越前町・旧織田町)の劒(つるぎ)神社を崇敬して社領を寄進し社殿の造営にも力を尽くしました。
また、熱田社、石清水社、賀茂上下社などの神社に造営料を寄進しています。
豊臣秀吉
豊臣秀吉は社領を安堵する代わりに寺院の武装を禁じました。
太閤検地により、社領地を削られる事にはなりましたが、
徐々に安定し祭祀が復興されていきました。
自らの家の氏神としての崇敬は特に定めてはいませんでしたが、全国各地の多くの神社に様々な祈願や寄進を寄せています。
秀吉の死後、その遺体は遺言によって、京都東山にある阿弥陀峯山頂に埋葬され、その山麓に廟所が設けられました。
吉田神道の記事でふれた吉田兼見の手配によって朝廷から長きにわたった戦乱の世を収めたとして「豊国大明神」の神号を賜り、北野社に倣った壮麗な社殿が建立され、盛大な鎮座祭が斎行されました。
これが「豊国神社」で、豊国神社の神宮寺別当には兼見の弟・梵舜があたり、社務は全面的に吉田家に任されました。
しかし豊臣氏が滅亡すると徳川幕府の意向によって社領も神号も廃されて衰退しました。のちに豊国神社は明治天皇によって再興の布告がなされ、京都市東山区の現在地に鎮座しています。
徳川家康
徳川家康が開いた江戸幕府も全国の主要な神社の社領地を安堵しました。
幕府が朱印状を発給し安堵した社領地を「朱印地」
藩が黒印状を発給して安堵したものを「黒印地」といいます。
こうして社寺は幕藩体制の中に組み込まれて行きました。
徳川家康も(ご存じの方も多いと思われますが)神として祀られています。
東照宮に。
駿府で亡くなられた家康は神葬祭を行う事も遺言で残してあり、
その葬儀は梵舜により唯一神道の方式で行われました。
天下人を神として祀る行為は
これら天下人を神として祀る行為は、戦乱の続く世を泰平にしたことを宗教的に顕彰するものでしたが、中世以来浸透してきた「神国思想」の新たな展開とも言われています。
また、各神社への保護や寄進は「御成敗式目」以来の武家としての治世者の伝統に立脚したものであるとも言えるでしょう。
『神社のいろは・続』より
今年はNHK大河ドラマが「どうする家康」で、ちょうどこの時代のことですから、家康が「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」を旗に掲げるようになった経緯や、三河一向一揆とか、仏教・お寺との関わりも知る事が出来ました。当時のお寺は要塞町のようで免税に加えて僧侶も武力行使してきたりで、家康も仏の教えは諭され信条とするところがあったけど、統治する立場としては領地内の寺が力を持ちすぎていて争いになり、最終的に神葬祭でと遺言に残す位だから、やはり神道が根本と思ったのかもしれませんね。